アーチェリー

早大・園田稚(上)史上最年少でナショナルチーム入り、ロサンゼルス五輪へ再スタート

ロサンゼルス・オリンピック出場をめざし、再スタートを切った早稲田大の園田稚(すべて撮影・井上翔太)

早稲田大学アーチェリー部で今年6月まで女子主将を務めた園田稚(わか、4年、足立新田)は、高校時代からオリンピック出場をめざして弓を構えてきた。パリ大会への出場は惜しくもかなわなかったが、早くも4年後のロサンゼルス大会を見据えている彼女の競技人生を前後編で紹介する。前編は、アーチェリーを始めたきっかけや高校3年時のコロナ禍で感じていたことについて。

パリ大会の最終予選から帰ってきたら、すでに代替わり

9月23日、第62回全日本学生アーチェリー個人選手権が、東京都の夢の島公園アーチェリー場であった。当初は2日間にわたって行われる予定だったが、前日の悪天候の影響で1日だけの開催に。園田が出場したリカーブ部門の女子も、72射による合計点で順位が争われた。

100人以上の出場選手が1列に並び、70m離れた的を狙う。180秒の制限時間内に6本射(う)ち、的に刺さった矢を確認して抜きにいく。これを12回繰り返し、園田は合計638点をマークして優勝した。

全日本学生個人選手権は、72射による合計点で順位が争われた

アーチェリー部としては、大学ごとのチーム戦にあたる6月の全日本学生王座決定戦で準優勝に輝いた後、代替わりとなった。このとき園田は、女子団体でのパリオリンピック切符をつかむべく、トルコのアンタルヤで最終予選を戦っていた。だが準々決勝で敗れ、上位4チームに与えられる出場枠を逃した。帰ってきたら自分たちの代は引退していたが、園田自身は大学卒業後も競技を続け、2028年のロサンゼルス大会をめざすため、個人として大会にも出場を続けている。

射ち方に癖がなく、JOCエリートアカデミーからスカウト

大分県別府市出身。幼い頃は「幼稚園から中学ぐらいまで続けていた」と言うピアノのほか、水泳やバトントワリングを習っていた。「でも、ピアノ以外は1、2年ぐらいで辞めてしまって、興味のあるものにポンポンと移っていきました」。中学1年のとき、通っていた中学校のそばにアーチェリー場があり、母が運転する車でよく付近を通っていた。「遊びに行ってみようか」と母から誘われ、園田も「楽しそう」と思っていたことから、まずは体験してみることにした。

最初は5mほどの至近距離から始めた。何本か射って、的の最も中心にある黄色のところに当たったときの「達成感」が楽しかった。国民体育大会(現・国民スポーツ大会)で少年女子を率いるコーチがフォームを教えてくれるとともに「アーチェリーやりなよ、オリンピックもあるし」と誘ってくれたことも大きかった。

ただ、始めた当初からオリンピックをめざしていたわけではなかった。「趣味みたいな感じで、週に2、3回アーチェリー場に行ってました」。それを1年ほど続けると「全国大会に出られるかもしれないから頑張ろう」とコーチから言ってもらい、大会の出場申請も通ったという。

全国大会では視察に来ていたJOC(日本オリンピック委員会)エリートアカデミーの関係者から、スカウトを受けた。「当時はJOCの存在もあまり知らなくて、『楽しそうだから行ってみよう』という感じでした」と園田。このときから身長が高かったことに加えて、射ち方に癖がないから声をかけられたのだと回顧する。「アーチェリーを始めた当初からコーチが付きっきりで教えてくれたので、そのおかげかなと思います」

中学から競技を始め、的の真ん中に当たったときの「達成感」が楽しかったと振り返る

入校当初は「追いつくことに必死」だった

中学3年から親元を離れ、JOCエリートアカデミー専用の寮で暮らし、味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)で練習する日々が始まった。「もともと『転校したい』というか、新しいことが好きで、新しい環境にも憧れていました。『誰でも行けるところじゃない』ということも周りから言われて、『じゃあ言ってみようかな』と、軽い気持ちで入りました」。ただ、JOCエリートアカデミーの環境は「生半可な気持ちではいけないと感じさせる、すごいところだった」と振り返る。

4人一部屋の共同生活で、授業が終わると「練習してご飯を食べて寝る」ような生活だった。「最初の1年間は本当に忙しすぎて、悲しむ暇もないというか……。何も思わなかったんですけど、2年目に余裕が出てくると『家に帰りたい』と思うときもありました」。帰省は地元で国体の選考があるときや、年末年始だけ。アーチェリー競技から一緒に入校した他の女子3人は、園田よりもすでに実績がある選手ばかりで「後れを取らず追いつくことに必死で、練習以外のことを思う余裕があまりなかったです」と語る。

他の選手に比べて間を置かずに矢を射るのが園田の特徴だ

オリンピックを意識し始めたのは、練習中にコーチから「今の点数を出せていたら、ナショナルチームに入れる」と言われた頃からだという。そのときは、あまり理解できていなかったが、高校1年のとき、本当に史上最年少でナショナルチームに入った。勢いそのまま、2020年3月にあった東京オリンピックの日本代表2次選考会まで進んだ。「そのときメディアの方々がいっぱい来られていて、『いま自分は、すごいところにいるのかもしれない』『これに勝ったらもしかして、オリンピック? やばい、やばい』とようやく気付きました」

だが、2次選考会を突破できず、新型コロナウイルス感染拡大の影響で東京オリンピックの1年延期が決まると、日本代表の最終選考会も開催が見送られた。NTCもいったんは閉鎖となり、園田は約3カ月間、実家に戻った。「家でできる環境をちょっとだけ作ってもらって、練習していたんですけど、やる気はそんなにありませんでした」と当時を振り返る。

早大・園田稚(下)オリンピック三度目の正直へ「大事なとき黄色に当てられる選手に」

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