慶應大・中村彰伸 命に関わる難病を経てスタッフに 支え、支えられた仲間との4年間
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慶應義塾大学の学生トレーナーとして、4年間チームを支え続けた中村彰伸(4年、國學院久我山)。彼が歩んだ日々は、決して派手なものではなかった。裏方として、選手たちが最高のパフォーマンスを発揮できるように支え続ける。勝利の瞬間にはともに歓喜し、敗北の痛みも分かち合う。そんな日々の積み重ねが、中村にとっての「ラグビー」だった。「支える側」として過ごした4年間。その熱い思いを語ってもらった。
國學院久我山でスタメン 順風満帆なキャリア
中村が「支える側」に回ることを決めたのは、高校時代にさかのぼる。
4歳の頃、中村は幼稚園の同級生に憧れて杉並少年ラグビースクールでラグビーを始めた。中学では徒歩40分かけて二つ隣の学区にある千歳中学校でプレー。そこで東京都選抜にも選ばれ、誘いを受けた國學院久我山高校へ進学した。
國學院久我山では2年生の初めからSO、FBとしてスタメン出場を果たし、後に慶應義塾大でも先輩となる1学年上の佐々仁悟、永山淳とともにプレー。華々しいラグビーキャリアを積み上げてきた中村だったが、ある日突然、残酷な運命が中村からラグビーを奪っていった。
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難病で死の恐怖、回復してもラグビーができぬ現実
高校2年の2019年5月、練習中に突然全身にしびれが走り、ある病気が判明した。病名はランゲルハンス細胞組織球症(LCH)。成人では100万人に1人がかかるとされる、まれな病気だった。
発症したのは胸椎(きょうつい)の上から2番目。その影響で現在もひじより下の小指側の感覚は、触られても分からない。
当時の症状は深刻だった。呼吸困難、全身倦怠(けんたい)感、胸から上の神経圧迫による激しい痛みに襲われた。横になると神経圧迫が強まり、座位でしか眠ることができなかった。「なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのか。死の恐怖を感じ、夜になると考え込んで涙が出ることもあった」
「病に負けるものか」という強い意志の力か、回復の兆しが見え始めた。ところが今度は、回復してもラグビーをプレーできなくなるという現実に直面し、その喪失感に苦しんだ。「生きることを願っていたのに、ラグビーができないことがこんなにもつらいなんて。人間って欲深いものだと痛感しました」
さらに、明らかに落胆する家族の様子を見て、ラグビーが「自分ひとりの夢ではなかった」と気づいた。特に父親は自身が野球をけがで諦めた経験があったからこそ、何不自由なく息子にラグビーをさせてくれていた。だからこそ、プレーで喜ばせることができないのが悔しかった。入院中に書いていたという日記を見返しながら、中村は語る。
「試合のビデオを見返してみると、トライして喜んでいるのは撮っている両親だったんです。そのことに初めて気が付きました」
退院後、世間はラグビーワールドカップで盛り上がっていた。しかし、その中で「自分だけがラグビーをできない」ということに苦しんだ。試合を見ることすらつらい時期もあった。
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「自分らしく生きて、ラグビーに恩返しをしたい」
しかし、入院中に多くの患者や医療関係者と接する中で、新たな考えが生まれた。
「この世界には、自分とはまったく違う環境で生きている人がたくさんいる。生かされた自分には、自分らしく生きる義務がある。生きねばならないと思いました」
ラグビーをプレーできなくなっても、中村のラグビーへの愛は消えなかった。
「ラグビーというスポーツそのものよりも、ラグビーをしている人たちとのつながりが、僕をここまで支えてくれた」
入院中、見舞いに来てくれた仲間たち。そして、病を乗り越え、新たな立場で努力しようと決意できたのも、ラグビーで築いた人間関係のおかげだった。
「ラグビーに関わる人たちは、自らの責任を果たすために自己犠牲をいとわない。そんな人たちと一緒に努力し続けたいと思った。そして、その出会いをくれたラグビーで何かを成し遂げたい。恩返しをしたいと強く思いました」
プレーができなくても、ラグビーとともに生きる道を模索する中で、國學院久我山高校では学生コーチとして尽力した。そして、慶應義塾大学入学後、最も手が足りないスタッフの部署を支えたいと考え、学生トレーナーとして活動することを決めた。
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ひたすら選手をサポート、努力が結実した1勝
4年間、中村の仕事は変わらなかった。選手の体調管理、フィジカルのサポート、けがの予防と対応。試合前にはテーピングを巻き、試合中にはグラウンドの端で選手の様子を見守る。
「毎日が無機質でした。選手みたいに『やり切った』という瞬間があるわけじゃない。ただひたすら、やるべきことを続ける。その繰り返しです」
しかし、その積み重ねが、チームの勝利につながる。特に、4年生の5月に行われた天理大学戦。前年、先輩たちは天理に大敗を喫した。リベンジを果たすため、シーズン開始直後からフィジカル強化に取り組んだ。
「前年、何もできなかった試合が悔しくて。1月から3月まで、フィジカルの強化やけが予防のトレーニングを徹底しました。その成果が出て、去年大敗した相手にスクラムで押し切って勝った。あの瞬間は、本当にうれしかったですね」
この天理戦は、単なる1勝ではなかった。前年の敗戦から学び、トレーナーとしてできることを積み上げてきた結果だった。選手が全力を出し切れる環境を整え、けがを未然に防ぎ、試合中もサポートし続けた。そうした努力が、結果として勝利につながった瞬間だった。
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「お前のおかげ」「お前のために俺らが」深い絆
「トレーナーをやっていてよかった」。そう思えた出来事があった。それは、大学選手権のときのこと。試合会場に着いた中村のもとに、同期の渡邉匠(WTB/FB、 4年、川越東)と渡邉海人(学生コーチ、4年、明和)から手紙が渡された。「手紙をもらうのは、選手だけのものだと思っていました。でも、まさか自分にまで届くとは思わなくて」
そこには、これまでの支えに対する感謝の言葉がつづられていた。
「お前のおかげでここまでやってこられた」
トレーナーという立場上、目に見える結果が出ることは少ない。試合に出るわけでもなく、得点を決めることもない。それでも、自分の仕事が誰かの力になっていた。そのことを、彼らの言葉が証明してくれた。
ラグビー部の寮生活。ひとつ屋根の下で過ごした濃密な時間は、単なる部活動の仲間を越える関係を作り出す。中村が最も信頼を寄せる後輩、藤田祥平(3年、慶應)。彼はけがに苦しみ、最終的に学生コーチへと転向した。
「アイツが選手を続けられないかもしれないって時に、同期と後輩でご飯を食べながら全員で泣いたんです。『お前のために俺らがいる』って。本気でそう思ってました」
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「人のためになることを」 卒業後も「支える道」へ
「やりきった、そう思えます」
卒業が近づき、4年間を振り返ったとき、胸にあるのは充実感だった。
「毎日が無機質で、しんどいことも多かった。でも、それでも続けられたのは、仲間がいたから。慶應蹴球部という組織があったから」
卒業後の進路はまだ決まっていない。しかし、中村には確かな信念がある。
「人のためになることをしたい。それが何であれ、ラグビーに捧げたこの4年間以上の情熱を注げるものを見つけたい」
中村彰伸が選んだ「支える道」。中村の姿を通して、ラグビーというスポーツが持つ熱さと、仲間との絆の深さを改めて感じさせられた。慶應蹴球部で得た経験を糧に、彼はこれからも新たな挑戦へと向かっていく。
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