アメフト

特集:駆け抜けた4years.2025

中央大学WR寸田夏大 苦しんだが輝いた4年間を締めくくった26ydのパスレシーブ

寸田は学生ラストゲームで大事にパスをレシーブした(すべて撮影・北川直樹)

中央大学ラクーンズ4年のWR寸田夏大(すんだ・かなた、佼成学園)は、万感の思いで観客席を見上げた。12月14日にあった関東学生TOP8とBIG8の入れ替え戦。中央大学は駒澤大学に勝ち、トップリーグの座を守った。寸田の表情は、安堵(あんど)しているように見えた。寸田にとって、度重なるけがに苦しんだ中央大での4年間は、つらいことの方が多かったはず。彼はラストシーズンを終えた今、何を思っているのだろうか。その気持ちを聞かずにはいられなかった。

大学2年春から5度のけが、2年半を棒に振る

中央大の試合があると、メンバー表を見て無意識に名前を探した。しかしこの3年間、「寸田夏大」を見つける機会はほとんどなかった。それが今年になり、やっと出てくるようになった。「ようやくプレーできるようになったのかな」。私はそう理解した。中央大の最終戦、駒澤大との入れ替え戦でもその名前はあった。

第2クオーター二つめのプレー。パスコースに出た寸田が、エンドゾーン奥でカメラを構えるこちらに向かって走り込んできた。QBの畑尾櫂(かい、1年、中大附属)が思い切り投げ込んだボールは寸田の手に収まり、サイドライン際に。26ydの前進。私はその姿を夢中で追い、撮った。試合の中での1プレーに過ぎないが、気にかけていた選手が最後のゲームでそのプレーを刻めたことがうれしかった。

高い位置で目を切らず、指先を使って柔らかくキャッチした

その後、寸田がパスをレシーブするシーンはなかったが、後輩の松岡大聖(3年、横浜栄)らの活躍で、中央大が地力の差を見せつけた。中央大にとって、この試合が今シーズン初めての勝ち星になった。

寸田は大学最後の試合を終え、「ホッとしています」と言った。この4年間はけがが多かった。最初は、2年生の春に立命館大学との試合で鎖骨を骨折した。9月に復帰したものの、肉離れが2回続いてシーズンを欠場。3年生になってからは順調な入りだったが、5月の練習で前十字靭帯(じんたい)を断裂し、3年生もシーズンアウトとなってしまった。不幸はまだ続く。4年生の5月には逆肩の鎖骨を骨折し、ラストシーズン初戦の明治大学戦には間に合わなかった。ようやく2戦目の早稲田大学戦から徐々に復帰する形で、ここまでやってきた。

寸田不在の間に、WRは松岡が絶対的なエースとして台頭。松岡の成長、活躍を外から見ている時間が長く、焦りも大きかった。

中央大学・松岡大聖 関東でルーキー史上初のリーディングWR、成長し続け目指す聖地
寸田不在の間、松岡はエースWRとしての立場を確固とした

それでもやってこられたのは、戦列を離れていた約2年の間、同期や後輩、コーチ陣が「絶対に待っているから」と声をかけ続けてくれたからだ。「特に、当時ヘッドコーチだった須永さんや、同期の加島(和樹、鎌倉学園)、前田(裕音、佼成学園)、福田(次郎、佼成学園)、そして松岡がいつも励ましてくれました。愛されてるなと感じました」。彼らの支えによって、チームを離れることなくアメフトを続ける気持ちを保つことができた。

「改めて、周囲に支えられてきた4年間だったと感じます。けがで2年半も離れていたら、正直見捨てられてもしかたないと思うんです。チームメート、コーチ、両親に、つらさを上回るようなサポートをしてもらえたことは、本当に感謝しかないです」と寸田は振り返った。

高校受験の“失敗”からアメフト生活が始まった

寸田がアメフトを始めたのは、関西大学でTEとして活躍した父、則隆さんの影響だった。と言っても、直接的にアメフトを勧められたわけではなかったという。

「受験で第一志望の中大杉並に落ちてしまって。まあ落ちるのがなんとなくわかってたんで、父親に佼成学園への進学を勧められたんです。『佼成入ったらアメフトしてくれ』って(笑)」。とはいえ、佼成学園入学後は、自らの意思で強豪の門をたたいた。2年生からWRのレギュラーで試合に出られるようになった。クリスマスボウルにも出て、3年時は劇的な逆転で関西学院高等部に勝利して全国優勝も果たした。

「佼成では隼世(高津佐、法政大3年)がエースで、僕ら(同期のWR)はその次くらいの位置付けでした」。クリスマスボウルは高校3年時に制覇した

進学先に中央大学を選んだ理由はいくつかある。高校の1学年先輩にあたる小林宏充(現・パナソニック)、藤坂航、北原健作らが中央大学でプレーしていて、「一度練習に来てみないか」と誘ってもらった。すでに同期の前田裕音が中央大への進学を決めていて、一緒にプレーできることも魅力的だった。

中央大学RB北原健作 高校の強豪から甲子園ボウル未経験チームへ、葛藤の末の決心

「正直、立命館や法政といった強豪チームでは、自分の実力だと試合に出れないとも思っていました」

当時の気持ちを寸田が打ち明ける。練習に参加してみると雰囲気も良かった。チーム側からも誘ってもらい、入学を決めた。

まさか1年生のうちから試合に出られるとは思っていなかったが、春の慶應義塾大学戦から出場機会を得て、WRの主力としてプレーした。「フィジカルはまだまだでしたが、意外とファンダメンタルは通用するなと感じました。来年はエースを目指したいと思っていました」。想定以上の充実したルーキーイヤーが送れた。

大学1年の秋はルーキーながらWRのスターターとして試合に出た

けがで離脱中にルーキーがエースの座に 自分は4年秋にようやく復帰

2年生になり、本格的にエースWRを目指し始めた矢先、けがで長期の離脱を強いられた。結果、寸田が欠場している間に1年生の松岡が頭角を現し、注目を浴びるようになった。松岡は、1年生として史上初めてリーグのリーディングレシーバーになった。

「(松岡は)入ってきたときからスゴいやつだと思っていました。ライバルとして意識もしていて、彼を超える存在にならないといけないとずっと考えてました」

しかし、自分はけがで試合に出られない現実。悔しかった。悔しさ以上に苦しんだ。3年になってからも肉離れの影響を引きずった。シーズンインは、目立った結果を残すことができずにいたが、腐ることなく今やれることに集中した。

「最終的には、4年でリーディングレシーバーになれたらって考えていました。でも結果的には松岡がエースになったんで、勝負どころはやっぱりあいつなんです。後輩ですがライバルでもあるし、尊敬できる存在だなと。悔しいけどそこは受け入れています。松岡がマークされる分、自分が空きやすい部分もありましたし」

4年になってからは松岡と逆サイドのNo1、同じサイドのNo2で試合に出た

寸田にとってのラストイヤー、2024年シーズンは松岡がオフェンスリーダーを務めた。オフェンスチームのリーダーシップは松岡に、寸田はチームのバイスキャプテンとしてサポート役に徹することを決めた。

このシーズンは序盤から接戦を続けて落として苦しんだ。「自分たちのミスで落とした試合もありましたし、歯が立たない試合もありました。ミスが多い試合は負けますし、難しいですが実力が出たかなという感じです」。リーグ戦を全敗で終えた中大は、創部史上初の下位リーグとの入れ替え戦に回った。

「そんな中でも『何、入れ替え戦なんて出てるんだ!』というような雰囲気はなく、OBの方たちにはずっと変わらず支援していただきました。今日の試合もほぼ満員で、愛されてることを感じました。本当に感謝ですね」

寸田は「愛されてる」という言葉を度々使う。純粋にまっすぐに取り組んでいないと、自らに対するこの表現は出てこないのではないだろうか。話を聞きながら、彼の人間性が少しわかったような気がした。

ラストゲーム後に観客席を見上げた

ラストイヤーに“第二の父”須永HCとの別れ

2024年シーズンの始動時には、寸田が「第二のお父さんのような存在」と慕っていた須永恭通ヘッドコーチとの別れもあった。日本大学出身の須永さんは、前年に違法薬物問題で廃部になっていた日大のチームを立て直すため、急きょ日大の責任者として母校に戻ることになった。

「須永さんがいなくなってしまうことは、すごくショックでした。僕が中央大に入ってから、けがでつらいときにも常に気にかけてくれましたし、思うようにやれてない間もずっと期待してくださっていましたから。4年の今年は、須永さんを日本一にして終わりたいという気持ちがあったので、それができないのがショックだなと」

寸田自身は最上級生になり試合に戻れるようになりつつあったが、別れはいや応なかった。須永さんが抜けることの影響は他にもあったが、立ち止まっていられない。「幹部で話し合って、4年として(気分が)落ちていられないと、切り替えるよう取り組みました」

不死鳥のように生き抜いた日大時代 中央大・須永恭通ヘッドコーチ(上)
試合に出られない期間は、須永さんとともにサイドラインで仲間を支えた

須永さんの寸田に対する評価は、入学当初から高かった。「真面目で、黙々と練習する選手でした。1人でスパイクを履いて自分の世界に没頭しているような感じで、動きもとても良く、期待できる選手だと考えていました」

スピード、キャッチ力、ルートランニング、フットボールIQ、ランアフターキャッチとバランスが取れていて、全てのレベルが高水準だった。1年生の秋には前試合にスターターで試合に出場。最終の明治戦では、試合終了間際に決勝のTDを決める活躍もした。「松岡と比べても『寸田の方が上』と思っていた時期もありました」と須永さん。実際、数年前にも同じような会話をした記憶が私にはある。

寸田は2年生春の立命館大学戦でロングポストをキャッチした際にタックルを受け、肩から落ちた。そのままフィールドを後にした。須永さんがこのときのことを振り返る。

「試合中、スタッフに耳打ちされたんです。どうやらかなり悪そうだと。これを聞いたとき、頭がクラクラしてしまうほどショックでした」

その後も寸田が長期離脱を強いられる中「活躍するのはお前だから」と励まし続けた。

須永さんは中大HCを退任した後も試合は見ていた。2024年シーズンの最終戦となった駒澤大学戦での寸田のパスキャッチも見たという。

「良いキャッチでしたよね。やっぱり、彼はその場にいるべき選手なんだなって感じました。けががなければもっと活躍したと思いますし、松岡と寸田がそろえばすごいチームになったんじゃないかなとも感じます。その分、社会人でも続けて活躍してほしいです」

須永さんからの信頼は厚かった。そんな須永さんのことを寸田も慕っていた

しんどかった4年間 でも、中大のWRユニットが大好き

「風の影響を考えながら、ボールから最後まで目を切らずにキャッチすることに集中しました。死ぬ気で捕ろうってのは、決めてました」

学生のラストゲームで寸田が記録したのは、この1キャッチ。見方次第では、たった1キャッチかもしれない。だが、ここまでの苦労の断片を見聞きしてきた中で見たそのプレーは、格別な輝きを持っていた。私は寸田にとっての4年間を思いながら、ゲームセットを迎えた。

試合後のサイドラインで寸田は笑っていた。スッキリとした表情だった。「ホッとしました」という気持ちを良く表していた。

集合写真の撮影時には屈託のない笑顔

だが、パート別のハドルに分かれるとその柔和な表情が一変した。これまでの様々な思いがあふれた。

「しんどいことの方が多かったかもしれません。でも全員の顔を見たとき、自分はWRユニットが大好きだなと改めて思ったんです。中でも宮澤光士郎(3年、新潟)、吉原聖也(2年、都立南平)、新保颯(1年、日大鶴ヶ丘)とか、かわいいヤンチャな後輩が多いんで。一緒にやってきたそいつらと離れるんだな、いつものあの練習の雰囲気が本当に終わっちゃうんだなって思うと」。涙が流れた。

こんな4years.がある。苦しみながらなんとかやり抜いた。最後は笑い、そして泣いた。理想とは違ったかもしれない。でも、迷わずに愛し、愛される仲間と過ごすことができた。結果以上のものを寸田やラクーンズの仲間たちはつかんだのではないだろうか。そこに美談や偽りはないだろう。

卒業後は全国勤務の職に就く。「アメフトを続けるかは、勤務地次第で考えたいなと思ってます」。そう言って、寸田ははにかんだ。表情を見ていると、フィールドを縦横無尽に駆ける姿をまた見たいという気持ちが強くなった。

「後輩たちになんとか日本一を目指せる環境を残せた」。その安心感と離れる寂しさが交錯した

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