愛するファイターズのため、ふるさとのため生き抜いた 前奈良県御所市長・東川裕さん

奈良県御所(ごせ)市は奈良盆地の南西部に位置し、緑豊かな田園都市だ。そこで生まれ育ち、ふるさとの市長を5期目の途中まで務めた東川裕(ひがしがわ・ゆたか)さんが、1月27日に肺がんで亡くなった。63歳だった。東川さんは関西学院高等部入学を機にアメリカンフットボールを始め、関西学院大学〝5年生〟までフットボールに打ち込んだ。当時の仲間たちや市長時代の晩年を取材した記者の言葉から、東川さんの半生を書き残しておきたい。
片道2時間半かけて毎日通学
1月30日の告別式。出棺の際、故人と妻の宣子さんとの思い出の曲という「はじまりはいつも雨」(ASKA)が流れた。「あのとき、心の中では『ファイトオン』を歌ってました」と振り返るのは、東川さんと高校、大学のアメフト部の同期で、大学時代はファイターズのキャプテンを務めた川原芳博さん。「ファイトオン」とは部歌の「Fight ON,Kwansei」のことだ。参列したファイターズの関係者は、おそらく同じ気持ちだったのだろう。学生時代のビッグゲーム直前に輪になって歌った部歌で、ファイターズを愛した東川さんを送り出した。

御所市で酒屋の末っ子(姉が2人)として育った東川さんは、中学までバスケットボールをしていた。高校ではアメフトをやりたいと関学高等部を受験し、片道2時間半かけて通学していた。当初はパスの受け手であるWR(ワイドレシーバー)として練習していたが、秋のシーズン前には選手をやめて、選手のコンディションを管理するトレーナーとなった。高校からの同期の蔵本直浩さんは「選手をやりたくて入ったけど、毎日の通学に5時間ですからね。しんどい、って言うてました。それまで高等部には学生のトレーナーがいなくて、ヒガシが最初でした」と語る。
高校生のころ、深夜のラジオ番組で「通学沿線気になるあのコ」というコーナーがあった。通学中に気になった「あのコ」について特徴や思いをハガキに書いて番組へ送る。採用されると番組スタッフが「あのコ」を探す、という仕組みだ。あるとき、京都から関学高等部へ通っていた蔵本さんが「あのコ」としてピックアップされた。すると翌週、今度は東川さんがターゲットになった。蔵本さんが言う。「僕は投稿してきた女の子とは会えんかったけど、ヒガシは会ったらしい。『会ったけど(付き合うのは)お断りした』って言うてました。日本人離れした顔立ちやったんで、まあモテましたわ」

Mastery for Serviceを体現
1980年春に関学法学部へ進学した。同時に東京の都立戸山高から理学部へ入り、のちにエースQB(クオーターバック)となる小野宏さん(ひろむ、現・関学アメフト部ディレクター)は東川さんに出会ってすぐ、肩の強さに驚かされたという。「高校のときからディフェンスの練習の手伝いで投げてたそうで、トレーナーなのに50ydは投げてましたから。選手を続けてたら、彼とQBのポジションを争ってた可能性も十分ありますよ」
選手を治療に連れていけるようにとチームから特別に許可され、2年生になると自動車で御所市から通学する日もあった。4年生のときにマネージャーのとりまとめ役である主務となった西山順治さんが振り返る。「僕は2年のときに肩がボコボコ外れて、ヒガシに肩周りの筋力をつけるトレーニングを考えてもらって一緒にやってたんです。ある日ヒガシに『もう(ファイターズ)辞めるわ』って言ったら、『トレーナーなれや』って。最終的にマネージャーになったんですけど、ヒガシがいなかったらそのまま辞めてたと思います」

タイトエンドとしてパスキャッチを磨きたかった蔵本さんは、全体練習のあと東川さんに頼んで至近距離から強いパスを投げてもらっていた。「全然嫌がらんと、ずっと付き合ってくれました。あれは助かりました」。オフェンスラインとして最前線で戦っていた川原さんも「ヒガシに何か頼んで断られたことがない」と話す。シーズンオフの練習にも付き合ってくれただけでなく、メニューも考えてくれたという。「しゃあないからやったる、という感じじゃなしに、それが自分の使命と信じてやってるのが伝わってきました」
川原さんは大学に入ってから両膝(ひざ)を痛めた。4年生の秋シーズンの試合前夜は、この年から東川さんが大学近くに借りていたアパートに泊まりこんだ。「腫れが引かないと試合に出られないから、一晩中膝のケアをしてもらったんです。しょっちゅう車で家まで送ってもらってたし、ヒガシにはめちゃくちゃ世話になりました」
「まさにMastery for Serviceやな、と思います」と蔵本さん。「Mastery for Service」とは関西学院のスクールモットーで「奉仕のための練達」と訳され、隣人・社会・世界に仕えるため、自らを鍛えるという関学人のあり方を示している。東川さんは、この生き方を高校、大学時代にトレーナーとして実践していたのだ。専門誌がファイターズ特集を組んだ際、東川さんはプロフィールの「信条」の欄に「誠意を持って選手と接する」と書いた。

スタッフで初めて「アンサングヒーロー賞」に選出
3、4年生の秋は関西学生リーグ1部で京都大学との全勝決戦に続けて敗れ、甲子園ボウル出場はならなかった。4年生だった1983年秋、京大戦を前にエースQBの小野さんは足首を痛めていた。試合の数日前まで松葉杖をついていたほどだ。関学の首脳陣は日本大学との甲子園ボウルを見据え、京大戦は小野さんを温存して勝ちにいくとの思いを持っていた。京大には前年の秋は負けたが、春の対戦で大勝していたこともその背景にあった。
ただ小野さんは着実に力を蓄え、チャレンジャーになりきって戦える京大という集団に危機感を持っていた。東川さんもエースが京大戦に間に合うように足首のケアを繰り返した。予定通り1年生のQB芝川龍平さんで京大戦に臨んだ。前半を終えて14-30とリードを奪われた。第3クオーター途中、小野さんは東川さんに告げた。「出してくれ」。首脳陣に掛け合い、小野さんがフィールドに入っていく。流れが変わる。関学は28-30まで追い上げたが、届かなかった。
年が明け、卒部式にあたる壮行会が開かれた。そこで東川さんは「アンサングヒーロー賞」を受けた。試合で活躍する場面はなくても、日常の活動の中で非常に活躍し、チームに最も貢献した、称えられるべきヒーローに贈られる賞だ。その前年まではずっと選手の中から選ばれてきたが、東川さんがスタッフとして初めて選ばれた。いまなお、ファイターズが最高の価値を置いている賞である。
大手飲料メーカーに内定していた東川さんはファイターズ同期の蔵本さん、松岡尚志さんとアメリカ西海岸へ卒業旅行に出かけた。満喫して帰ってくると、東川さんは1単位足りずに留年が決まった。同じく留年が決まった小野さんとともに、ファイターズのコーチになった。関学で留年した学生がコーチに入るのは二人が初めてだった。

「市民が誇りと夢を取り戻せるような町に」と立候補
その1984年は壮絶な年だった。春の序盤に大阪体育大学、日本体育大学に続けて負けた。すると、小野さんの次のエースと目された2年生QBの縄船敏之さんがチームを去った。秋のシーズンに入り、関学は第3戦の近畿大学戦を7-14で落とす。そこで縄船さんが戻ってきた。頭をツルツルにそり上げた姿で、「僕がこのチームを甲子園に連れていきます」と言った。小野さんは彼の起用に躊躇(ちゅうちょ)したが、出番を得ると活躍し、リーグ最終の京大戦でも躍動して14-3での勝利に大きく貢献した。近大との甲子園ボウル出場決定プレーオフは死闘となったが、辛くも30-28で制して3年ぶりの甲子園ボウル出場を果たした。小野さんと東川さんは縄船さんが発揮する「不思議な力」について何度も語り合った。二人は「もう縄船に頼るしかない」との意見で一致していた。
日大との甲子園ボウルは劇的すぎる幕切れになった。関学は試合残り1分33秒、8点を追って自陣33ydからオフェンス開始。残り4秒で縄船さんがタッチダウンパスを決め、2点コンバージョンも決めて同点優勝となった。タッチダウンのプレーは、縄船さんがエンドゾーン左隅へ浮かせたパスを、いったんは日大の選手が奪い捕ったかと思われた。しかしその両手からボールがこぼれ、関学の4年生WR菅野裕士さんが倒れながら捕ったのだった。東川さんと小野さんはそんなドラマのような映画のようなシーズンに留年コーチとして伴走したのだった。
商社に就職した東川さんは東京で2年勤務したあと、御所に戻って家業を継ぎ、東川酒店の4代目店主となった。行政や議会経験はなかったが、「町づくりのNPO活動をしているうち、御所への思いがいっそう深まった。市民が誇りと夢を取り戻せるような町にしたい」と、2008年6月の御所市長選に立候補した。「最初に市長の話を聞いたときは『やめとけ』って言いましたよ」と蔵本さん。「北海道の夕張市並みに累積赤字があるって聞いてましたから。それでもふるさとの仲間たちに支えられて立候補して、当選して。財政再建も果たしましたしね。高校、大学時代のヒガシを見てて市長になんかなるタイプじゃないと思ってたけど(笑)、すごい立派やなと思いました」

「アメフトはじっくり戦略を練るところが面白い」
ここからは私の朝日新聞奈良総局勤務時代の同僚で、2020年4月から24年9月末まで東川さんを取材した清水謙司記者(現・京都総局記者)が寄せてくれた文章で東川さんの晩年に迫りたい。
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2020年4月。奈良県の橿原支局に転勤した。転勤して最初に会った政治家が東川さんだった。
奈良は歴史のまち。歴史・文化財の取材を専門とする立場で赴任したが、支局は「何でも屋」でもある。まわりの市町村の出来事も取材しなくてはならない。
持ち場の一つに、東川さんが市長をしていた御所市が含まれていた。5月に市長選があると知った。東川さんは4回目の当選を目指して立候補を表明していた。市役所の秘書課に電話して面会を申し込んだ。市役所近くの公園に、桜が咲き誇っていたのを覚えている。
市長室で名刺交換をして、進めている政策や地元・御所市のことなどについて意見をうかがった。選挙の記事を書くときは、選挙に出る人の経歴も紹介する。東川さんが関西学院大学の出身であることもあらためて確認した。聞けば高等部からの関学育ちで、はるばる御所市から通学していたとのこと。もちろん、アメリカンフットボール部ファイターズの話にもなった。「関学愛、いや、ファイターズ愛が強い人なんやな」と思ったのを覚えている。

面会の翌月、市長選が告示された。東川さんのほかに立候補した人はいなかったため、無投票で4回目の当選が決まった。当選直後の取材では、浮かれず、引き締まった表情でこう述べたのも印象深い。「数字上は財政再建を果たすことができましたが、決して裕福になったわけではない。それ以上に課題が山積している」
東川さんは08年に初当選した。翌年、御所市は財政破綻寸前の早期健全化団体となった。以来、東川さんはふるさとの財政健全化に取り組んできた。職員数削減や給与カットなどに取り組み、11年度決算で脱却した。一般会計の実質収支が黒字になったのは、なんと約40年ぶりのことだったという。過去の新聞記事を読み直した。初めて市長選に臨むとき、報道陣にこう語っていた。「アメフトはじっくり戦略を練るところが面白い」。財政再建の道筋をつけた行政手腕にも、ファイターズで培った経験は生きていたのだろう。そう思った。

ファイターズと同様、ふるさとも愛した
東川さんは義理と人情を大切にした。
自民党奈良県連推薦の新顔と、知事5選をめざした現職がともに立候補。「保守分裂」となって支持が割れ、日本維新の会が公認した新顔候補(いまの知事の山下真氏)が当選した23年の奈良県知事選では、形勢不利が指摘されていた現職を一貫して支えた。これまで、御所市のために役に立つ県政を進めてくれたからというのが理由だった。選挙戦では、雨が降る地元・御所市の公園での街頭活動で、現職の選挙カーが到着するのを待っていた姿が忘れられない。
わたしはこの知事選を取材するチームに入っていた。選挙の取材では、マスコミに公開されていること以外の動きも探ることが求められる。どの候補はどこでどんなことをするのか、どの政治家は誰を推すのか、またそれはなぜか――。奈良県市長会長などを務めた東川さんはキーマンのひとりだった。原則として口は堅い。でも、こちらが積み重ねた取材の成果を基にした情報について意見を求めると、それが正しいか間違っているかについては、端的に、誠実に意見をくれた。何度も助けられた。
わたしの携帯電話には、いまも東川さんの番号が残されている。東川さんから電話が入ることもあった。その多くは、ふるさと御所市のPRのためだった。「御所市でまちの銭湯が復活したのを記事にしてもらえないか」「こんな行事があるから取材に来てください」。市役所の広報担当が報道機関に一報するたぐいのネタを自ら発信。ファイターズ同様、ふるさとを愛した首長だった。
東川さんは24年5月の市長選でも無投票で5選を決めた。このときも、御所市をさらに発展させることを誓っていた。「経験は積みましたけれども、素人の色が濃く残っている首長だと思っております。私にいろんなアイデアをください。叱咤激励をください。『オール御所市』で次の10年を目指して、精いっぱい旗を振らせていただきたい」

それから数カ月後、東川さんは記者会見して辞職を発表した。
東川さんが自身の進退について8月19日に記者会見をする……。8月16日、御所市役所の秘書課から、そのような見出しのついた報道資料が届いた。緊急事態に違いない。心苦しいが記者の務めは果たさなければならない。東川さんの携帯電話を鳴らした。電話に出てくれた。病気が再発したと答えてくれた。そして「断腸の思い」と口にした。有力政治家の進退を知ったら、速やかに報じるのが記者の務めだ。記者会見を待たずに、記事にさせてもらうことを告げた。「わかりました」と答えた。
記者会見では、わたしたちに気を使わせないように、気丈にふるまっていたのが心に残る。「(5期目の)任期が始まったばかりで、断腸の思いであり、残念でなりません。いままでの支援に心から御礼申し上げます」。穏やかな笑顔まで見せながら、引退し、治療に専念することを告げて、会見を終えた。わたしは深々と頭を下げた。
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「ほんまに献身的な生涯やったと思います」
約4年前、肺がんのステージⅣであることがわかった。ほぼ寛解し、5期目が始まった。昨年9月末の市長辞任を前に蔵本さん、西山さんらが御所市役所まで会いに行ったときは元気だった。「市長辞めて治療して、立命戦か甲子園ボウルは応援に行くで」と話していた。その後病状が悪化し、12月になるとメールの返信も妻の宣子さんが代筆するようになった。そして年が明け、東川さんは逝った。
小野さんは人づてに聞いたことが、強く心に残っているという。「東川は市政運営で決断を迫られたとき、『この状況で川原やったらどう判断するやろか、(小野)宏やったらどう考えるやろか』と我々フットボール仲間のことを頭に思い浮かべていたそうです」。これ以上の絆はない。
「高校、大学でトレーナーとしてやってきたことが生きて、市長になっても市民のみなさんに愛される東川になったんやなと思うし、ほんまに献身的な生涯やったと思います。高等部のときに内村鑑三について勉強したのを覚えてるんやけど、後生に何を残すのが一番いいのかと。それは『その人が後生に語り継がれるような生きざまを遺すこと』やという話でした。ヒガシはまさにそれやと思う。トレーナーの時代は仲間のため、市長の時代は市民のために一生懸命やってきた。普通やったらここから自分のために過ごせるんやけどね……」。蔵本さんはそう言って、うつむいた。
2025年のファイターズは4月19日に春の初戦を迎える。夏合宿を経て、本番の秋のシーズンが始まり、大学日本一への歩みを進めていく。その姿を、ファイターズを愛するOB・OGたちが見つめている。

