サッカー

特集:第70回早慶クラシコ

鹿島アントラーズDF山本脩斗、早稲田でのさまざまな経験が一生の宝物

山本は早慶クラシコに3回出場している

7月12日、神奈川・等々力陸上競技場で早稲田大学と慶應義塾大学のサッカーの定期戦「早慶クラシコ」がある。事前の話題第四弾は、早大OBで鹿島アントラーズでプレーする元日本代表DFの山本脩斗さん(34)のストーリーです。

「紺碧の空」を歌い、喜びに浸った早慶戦

山本さんは2004年に早大ア式蹴球部に入り、早慶クラシコには2年生から続けて3度出た。プロ入り後、両サイドに対応できるDFになったが、大学時代は攻撃的なポジションを務め、2、3年生のときはトップ下、4年生のときには2トップの一角として早慶クラシコでスタメン出場した。「なんか不思議な感覚ですね」。山本は10年以上前の記憶を呼び寄せ、懐かしんだ。

当時の早慶クラシコは国立競技場で開催されていた。「どの年も、リーグ戦はもちろんインカレ決勝でさえ感じられないほどの盛り上がりがありました」と山本。「スポーツの聖地」で早稲田、慶應の両校がプライドをかけてのぶつかる一戦。その緊張感は特別だった。

「早慶戦に勝ったあとに、みんなで『紺碧(こんぺき)の空』を歌う。そこに一番の喜びがあったんじゃないですかね。部員やスタッフがいろんなところで協力してくれてたり、早慶戦に出られない選手がいたり、みんなのために何としても勝とうっていう気持ちは、出てる選手は間違いなく持ってたと思います。だから最後に勝って歌うっていうのは特別なものでした。これはプロでは決して味わえないもので、ほかの大学にもないものだと思います」

山本自身の早慶戦は、2-1、5-0、0-0で2勝1分け。とくに勝利後の喜びに浸る中で味わえた一体感は「早慶戦ならでは」と振り返る。

早慶戦の雰囲気を「プロでは決して味わえない独特なもの」と山本

東京都1部リーグでも、早稲田に行きたい

山本が早稲田に入った理由はさまざまある。父親がかつて早稲田のスキー部で主将を務めていたこと、さらに将来を見すえ教員免許を取得できる環境にあったのも一つ。そして、2007年に早稲田が創立125周年を迎えるにあたり、体育会各部を強化する機運が高まっていたのが決め手になった。当時低迷していたア式蹴球部は東京都1部リーグに所属していた。関東大学の1部、2部の下だ。それでも早稲田に入る価値はあると、山本は思った。

04年に山本が入部すると同時に、早稲田OBであり元日本代表の大榎克己氏が監督に就任。上級生には徳永悠平(現・V・ファーレン長崎)や松橋優(現・ヴァンフォーレ甲府)、同期には兵藤慎剛(現・ベガルタ仙台)など、のちにプロ入りする選手をはじめ、優秀なタレントがいた。中でも徳永はすでにFC東京の特別指定選手としてJリーグでもプレーしていた。新入生の山本が刺激を受けないわけがない。「日ごろから高いレベルでやれたので、自分の中ではすごいプラスでしたね」

心身ともにつらかったグラウンド整備

岩手の盛岡商業高校出身の山本は、大学1年生から試合に出られたわけではない。体の強さや足元の技術でレベルの差を痛感していた。当初はメンバー外になることもしばしば。「いまだに覚えてます」と振り返ったのは、メンバー外の1年生に課されたグラウンド整備だ。

いまでこそア式蹴球部の練習場は人工芝が敷き詰められているが、当時はまだ土のグラウンドだった。東京都1部リーグの試合は大学のグラウンドで開催されるため、前日には試合ができる状態に整えなければならない。練習後、トンボを使って3時間ほどかけて土をならす作業は、心身両面に堪えた。山本は当時の光景を思い浮かべながら「メンバーに入れなかった悔しさは、いまでもはっきり覚えてますね」と笑った。

1年生の夏以降、徐々に出場機会が増え、2年生になると主力になった。その後は学年が上がるにつれ、キャリアは充実していった。大学選抜やU-21日本代表にも選ばれた3年生のときにプロを意識し始め、「いいプレーをすればチャンスはある」という手応えも感じていた。

結果的に4年生の秋にジュビロ磐田への加入内定を勝ち取り、大学最後の大会であるインカレを優勝で締めくくった。ただ、最後のインカレに山本は出ていない。大会直前に受けたジュビロ磐田のメディカルチェックで血栓症を患っていることが分かり、入院生活を余儀なくされたからだ。

出られなかったインカレが一番の思い出

早稲田は前年のインカレでも決勝まで駒を進めていたが、駒澤大に1-6で大敗。部員はみな、リベンジに燃えていた。当然、山本も同じ思いでいた。だからこそ、ピッチに立てないのを残念に思ったが、ふてくされたり、悔しさを引きずったりすることはなかったという。むしろ、チームメイトたちが優勝を勝ち取ってくれたうれしさの方が勝った。

大学最後の大会だったインカレに山本は出られなかったが、素直にチームメイトの優勝を喜べたという

「インカレに出られない人、それから、試合に臨むための準備をしてくれる人、もちろん、プレーする選手もそうなんですけど、いろんな人の4年間の思いを大会前から感じてたんですよね。その中でチームが一体になって優勝できたので、僕は出られませんでしたけど、すごくうれしかったですね。僕にとって大学最後のインカレは一番印象に残ってる大会です」

仲間たちとともに戦い、密接な関係を築くことで生まれた一体感。その中で体感した大学時代のあらゆる出来事は、プロとして10年以上戦い続ける山本さんの脳裏にしっかりと刻まれ、一生の宝物になっている。

山本(中央)は2013年12月に鹿島アントラーズへ完全移籍し、現在に至る(撮影・伊藤進之介)

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