野球

延長17回の死闘、PL学園・三垣勝巳「前日の練習は一生忘れられない」

第80回大会準々決勝 PL学園-横浜、三垣は7回、松坂から勝ち越しのタイムリーヒット(撮影・朝日新聞社)

連日熱戦が繰り広げられている夏の甲子園。高校野球ファンなら誰もが知っている伝説の試合の一つが、1998年夏の選手権大会準々決勝、松坂大輔(現・中日)を擁する横浜(南神奈川)とPL学園(南大阪)の戦いだ。延長17回、3時間37分にわたる死闘の末、横浜が9-7で勝った。当時PL学園のファーストとして出場し、いまは東京農業大学北海道オホーツクの野球部を率いる三垣勝巳監督(39)に当時を振り返ってもらった。

春に初めて松坂と対戦「すごいピッチャーだ」

「一つ上の代が『最強の世代』と言われてて、僕たちはそこまでの実力はなくて。プレッシャーの中からのスタートだったんです」。三垣監督の意外な言葉から取材はスタートした。1990年代に入って全国制覇からは遠ざかっていたが、当時の高校球界でPLといえば強豪校の代表格。だが本人たちには、そんな気持ちはなかったという。

3年生が引退して三垣さんたちが最上級生になり、春の選抜大会に出場。「当時は試合のたびに強くなっていく、という感じでした。1試合やるごとに意識が高くなっていって、どう試合を進めていくか、勝つためにはどうするか、というのを考えるようになりました」。そして迎えた準決勝で、PLは横浜と対戦する。その時に初めて「松坂ってすごいピッチャーや」と認識したという。ただ総合力では、ほぼ互角。試合はPLのほうが優勢に進めていたが、2-3で競り負け、横浜はそのまま春の栄冠を手にした。

「松坂を倒す」が合言葉に

「そのときから『夏は絶対に甲子園に行って、松坂を倒すぞ』ってみんなで言ってました。センバツから戻ってから、練習でもよりチームプレーを意識するようになったり、一人ひとりが変わりました。最終的には『これで負けるわけがない』というぐらい、自分たちに負荷をかけて練習してましたね。誰かに言われるのではなく、自分らでそう思ってやらないと、限界は超えられない。いまでもそう思います」

にこやかに当時のことを振り返ってくれた三垣監督

とはいえ南大阪は激戦区。当時は7回勝たないと甲子園に出られなかった。「でも正直、4回戦ぐらいまでは『PL』というユニフォームを見ただけで相手が萎縮してるな、と感じることもありました(笑)。僕はファーストだったので、結構みんなが言っていることが聞こえるんです。ある試合でヒットを打った選手が『やった、PLの上重(聡、現・日本テレビアナウンサー)からヒット打ったぞー!』って言いながらベースを回っているのを見て、彼らの野球の目指すところはそこなんやな、と思ったりもしました。僕らは甲子園に行くというよりも『もう一回松坂と対戦して、勝って終わりたい』という気持ちでやってました。強い相手とやれるのが、とにかく楽しみでした」

夏の再戦前日、一生忘れられない濃密な練習

全員が高い意識でまとまっていたPL。夏も甲子園へ戻ってきた。3回戦で佐賀学園に勝ち、国体出場の権利を得たときにまず、チームみんなで喜んだという。「当時はかなり厳しく管理されてて、外に出るのもなかなかできませんでしたから。国体で学校の外に行けるぞ! って言ってみんなで喜びましたよ(笑)」

準々決勝を前に改めて抽選があり、キャプテンの平石(洋介、現・楽天監督)が引き当てたのは横浜との対戦だった。「正直、(当たるのが)早いんちゃうか! ってみんなでツッコみました。イメージ的には決勝で当たって、という感じでしたからね(笑)。でも対戦が決まったからにはやるしかない、と」

横浜との再戦前日。大阪市内の宿舎から学校のグラウンドに戻り、1時間半という限られた時間の中で練習した。「マウンドよりも近くからボールを投げて、速いボールに目を慣らしました。最初は『こんなん打てるか!』って感じなんですが、続けてるうちにだんだんバットに当たるようになって、芯でとらえられるようになってくるんです。とにかく『無理』と思っていることを『無理じゃない』に変えられるように、必死でやりました。無理と思った時点で、なんでも無理になってしまいますから」

「松坂を倒す」。PLはひたすらその目標に向かって練習した(撮影・朝日新聞社)

全員が「松坂を倒す」という意識のもと、ひとつにまとまって練習した、本当に濃密な時間。「あの時間は、たぶんこれからも一生忘れませんね。あの練習は僕の人生の中でもほんとに大きな時間です」

「絶対に勝つ」と「松坂を倒す」の違いが出た

決戦は朝8時にプレーボールとなった。「1回攻撃で打席に立ったヤツが言うには『いけます』と。いやほんまか? と思って僕は2回に打席に立ったんですが、たしかにボールが来てない感じはありました。松坂は前日にも投げてたからその影響もあったんでしょうけど、僕らが練習して目が慣れてた部分もあったと思います。とにかく、これはいける! と全員が自信を持ったんです」

その言葉通り、2回に3点を先制。4回に2点を奪われるが、直後に1点を取り返した。しかし、5回表には2点を返され、4-4の同点に。その後PLは7回、三垣のレフト前タイムリーで5-4と勝ち越す。しかし8回にまた追いつかれた。

2回、二塁から生還した三垣(撮影・朝日新聞社)

「松坂のボールは回を追うごとに速くなっていった感じでした。よく今でも150km越え! なんてピッチャーがいますけど、松坂のまっすぐは『本物のまっすぐ』だと思います。初速と終速がまったく変わらないんですよ。延長に入ってからも、それはずっと変わりませんでした」

延長に入ってからも11回と16回に取って、取られて。7-7で17回を迎えた。横浜は2死一塁で7番の常磐良太が上重からツーランホームランを放ち、勝ち越し。これで決まった。

「やっぱり、横浜には春夏連覇がかかってて『とにかく勝たなきゃダメ』という意識があったと思います。勝ちにフォーカスしてました。それに対して僕たちは勝つというより『松坂を倒す』ことが第一になってしまってた。延長17回の死闘で『こんなゲームをさせてもらえてありがとう』とすら思ってました。その意識の違いが、最後の最後で出たのかなと思います」。勝負への貪欲(どんよく)さの違いがあった、と振り返る。

松坂は決勝の京都成章戦、ノーヒットノーランで春夏連覇をつかみとった(撮影・朝日新聞社)

負けて悔いはなかったですか? と聞いた。三垣さんはこう答えてくれた。「それは、もちろん負けた瞬間は悔しかったし、勝ってたら決勝に行ってたんちゃうかな、っていろいろ思うこともありました。でもいまとなっては、負けたことによっていろいろ学べたから、よかったと思います。人間、成功だけでは絶対にダメなんですよ。失敗を繰り返して強くなっていくんだと思います」

死闘をともにしたPLのメンバーとはいまでも連絡を取るという。
一生忘れられない夏が、仲間の絆をより強くした。

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