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連載: プロが語る4years.

筑波大で3冠達成、前倒してNBAに近づく道を模索して 馬場雄大2

インカレ優勝メンバーから代替わりした2年目は馬場も苦しんだ (c) Masami SATOH

今回の連載「プロが語る4years.」は、バスケットボール男子日本代表としても活躍する馬場雄大(24)です。筑波大学在学中にBリーグのアルバルク東京に加入し、昨シーズンはアメリカに渡ってGリーグ(NBAの育成リーグ)のテキサス・レジェンズで、今シーズンはオーストラリアのメルボルン・ユナイテッドなどと世界で戦っています。4回連載の2回目はアルバルク東京への加入を決意するまでについてです。

アメリカで変わっていく渡邊雄太に鳥肌

馬場は高校時代からアメリカ、そしてその先のNBAへの憧(あこが)れを募らせていた。その背景にいたのは、U-18日本代表でともにプレーした1学年上の渡邊雄太(現・メンフィス・グリズリーズ)だった。

渡邊は尽誠学園高校卒業後に渡米し、プレップスクール(大学進学準備校)でプレーしながら強豪大のオファーを待っていた。「自分だったらどれくらいやれるんだろう」。渡邊の奮闘を映像で見る度に、馬場はまだ見ぬ地でプレーする自分の姿を思い描いた。映像や会話を通じて感じた渡邊の変化も、馬場のアメリカへの思いを一層かきたてた。

「高校の時に見ていた雄太とまったく違うものを感じたというか。異国の地でひとりで戦う雄太は、日本にいたころとは別人のような雰囲気を醸し出していました。時々電話などでやり取りした時も『きついことも多いけれど、こんなふうに工夫しながら頑張っている』みたいな感じですごく前向きで、『アメリカに行くとこんなにたくましくなるんだ』って、ぞわっと鳥肌が立つような感覚がありました」

渡邊という前例がいたため、高校卒業後のアメリカ行きは、馬場が望みさえすればかなり現実的なものだったという。しかし、馬場はそれを選ばなかった。様々な関係者の意見を聞き、4年間で英語への不安をつぶし、教員免許をとってからでも遅くないと判断したからだ。

馬場は「日本一」「天皇杯優勝」を掲げ、大学バスケ界に挑んだ (c) Masami SATOH

筑波大進学後は「卒業後のアメリカ挑戦」に目標を切り替え、そのために、1年生の時から「日本一」「天皇杯優勝」という大きな目標を掲げた。1年生での新人戦では、「アメリカでも通用するよう、年々プレーエリアやできることを広げていきたい」とコメント。筑波大の吉田健司監督は、「個人練習でもチーム練習でも、自分の目標に向き合ってしっかり練習していた」と当時の馬場の様子を述懐した。

馬場は自らの選択を後悔しないためにも、常に目標を持ち続け、高いレベルでの努力を続けた。ただ、4年計画を想定していたインカレ優勝を1年目に達成した時は、さすがに「この選択は正しかったのだろうか」と心が揺らいだ。

インカレ3連覇、NCAA1部の大学への編入を考えるも

大学入学後、早々とかすかな退屈を感じてしまった馬場だが、2年目には2年目なりの苦労が待ち受けていた。インカレ優勝に貢献した選手たちが卒業し、代替わりしたチームはしばらく迷走。関東学生選手権の決勝は東海大学のリベンジに屈し、リーグ戦も3位に終わった。馬場もこの状況をなんとか打開しようとしたが、空回りに終わることも多かったという。それでも最後は4年生がコート内外で結束し、インカレ2連覇を達成。3年生の時にも関東学生選手権優勝、リーグ戦優勝、インカレ優勝(3連覇)と素晴らしい成績を収め、馬場自身もA代表候補、ユニバーシアード代表として高いレベルのバスケを経験した。

自身が「ダントツに近い出来」と評価するインカレの前、馬場は吉田監督にある思いを打ち明けた。「日本の大学バスケではもう十分やれたんじゃないかと思っています」。インカレ終了後、改めて話し合いの席についた時は、アメリカの事情に詳しい知人を介し、転入オファーが見込めそうな大学探しも始まっていた。大学入学時に「4年後」と遠ざけた思いを、とにかく早く引き寄せたくて仕方がなかった。

3月には転入のオファーをもらったNCAA1部の大学に足を運び、コーチと面談もした。しかし話を聞くと、1年目は練習生扱いとなり、実際にプレーできるのは翌年の1年間のみだと分かった。思っていた以上にハイリスクな挑戦だと理解すると、馬場はもうひとつの選択肢に切り替えた。1年早くBリーグに進み、日本代表として国際大会で活躍することでNBAからの評価を得る方法だ。

NBAに近づく道を探し求め、馬場は大学バスケを1年早く卒業する道を選んだ (c) Masami SATOH

帰国後、改めて吉田監督と話し合い、4年生春の関東学生選手権後に部を退部し、Bリーグに挑戦することを決めた。いくつかのクラブを検討した結果、馬場が選んだのはアルバルク東京。A代表の候補合宿やユニバーシアード日本代表の合宿で指導を受けていたルカ・パヴィチェヴィッチ氏(当時は日本代表暫定ヘッドコーチ)が、翌シーズンからヘッドコーチに内定していたことが大きな決め手だった。

NBAに近づくために、迷いも恐れもなかった

今でこそ、大学を退部してBリーグに飛び込む選手が少しずつ増えてきたが、馬場はその第1号選手。“ファーストペンギン”となることへの戸惑いや恐れはなかったと尋ねると、即座に「なかったです」と言葉が返ってきた。

「もう上しか見ていなかったので、通用しなかったらどうしようなんてことは考えていませんでした。1年でも早くレベルの高いところにいって、NBAに入るためにより良い環境でやりたいという思いだけでした」

大学側も、エースプレーヤーの放出という前例のない事態に対して、葛藤があったに違いない。馬場のアメリカへの思いを入学前から知っていた吉田監督も、「退部してでも挑戦する」という申し出には心底驚いたというが、その思いをしっかりと受け止め、各クラブへの売り込みまで請け負った。「馬場は日本の宝だから」。その言葉が、胸に深く響いた。

かくして馬場は、同期たちよりも早い“卒部”を決めた。

プロが語る4years.

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