フィギュアスケート

特集:駆け抜けた4years.2021

関大・本田太一、17年間のスケート人生にピリオド 就活で発揮した体育会の強み

ラストの全日本選手権SPで会心の演技を披露する本田太一(代表撮影)

フィギュアスケートで活躍した関西大学4年の本田太一は卒業と同時に現役を引退しました。17年間の競技人生を振り返りながら、「体育会学生と就職活動」をテーマに4years.へ寄稿してくれました。

コロナ禍、不安の中で就活

元フィギュアスケーターの本田太一です。私は2020年12月末の全日本選手権、2021年1月末の国民体育大会をもって、5歳から始まった17年間のスケート人生にピリオドを打ちました。私は比較的早くから大学卒業の今シーズンで現役から退くことを表明していたこともあり、コロナ禍で多くの制限がある中でも、普段の練習から最後の演技に至るまで、多くのスケーターやコーチの方々、ファンの方々に支えられ、これ以上求めるものがないラストシーズンを送ることが出来ました。本当に感謝しています。

今回の寄稿に際して、全日本選手権の振り返りやラストシーズンの心境などをつづろうかとも考えましたが、このような内容に関しては他のインタビューなどで何度かお話させて頂いている点、「4years.」は大学生スポーツに焦点を当てている総合情報サイトである点を考慮し、本寄稿は「体育会学生と就職活動」に焦点を当てた寄稿とさせて頂くこととします。なお、本内容は私自身の経験と見解に基づいており、関西大学や関西大学体育会アイススケート部とは一切関係ない点をご理解下さい。

私は、大学卒業と同時に就職をすることは高校を卒業する前から決めており、関西大学で過ごした4年間は、学生生活終了までのカウントダウンであると同時に、スケート人生終了までのカウントダウンでもありました。とはいえ、早期から就職活動に意識が向いていたかと言うとそうでもなく、本格的に就職活動に向けて取り組み出したのは、ウィンタースポーツであるフィギュアスケートのシーズンが終了した大学3年生の2月末でした。この頃に就職活動を始めることも自分の中で事前から決めていたので焦りはありませんでしたが、この時期既に内々定を得ていた友人も多く、今振り返るとかなり遅れたスタートだったと感じています。

最後の全日本選手権SPを滑り終え、涙をぬぐった(代表撮影)

この時点で志望業界も絞っていましたが、コロナ禍という不安も相まって、結果的に3月中に30~40社のエントリーシートを書きながらWebテストを毎日のように受検することになりました。ただ、幅広い業界の研究をしたことで、自身の将来やりたいこと、挑戦したいことがクリアに見えてきたので、多角的に就職活動の全体像を把握出来たかと感じています。

加えて、緊急事態宣言が発令されていたために関西大学のスケートリンクが閉鎖されており、練習が出来なかったからこそ、競技のことを一旦忘れて就職活動に専念することが出来たのは、21年卒ならではの体験であったと思います。就職活動と競技を両立されていた先輩方には頭が下がります。

「経験の言語化」に悩んだ

4月に入ると次第に面接が開始されますが、ここで悩んだのが「経験の言語化」でした。就職活動において、「体育会は有利」「体育会なら自動で書類選考に通る」などのうわさを聞いたことのある学生は多いと思います。しかし、就職活動は私自身の想像よりはるかに難しいものでした。

書類選考は一方的な文章送信のみ、個人面談の場合でもわずか数十分、集団面接の場合はさらに短い会話の中で、大学生活4年間(私の場合は17年間)の競技人生によって培った経験や強みを言葉で(今年度に関してはリモートで)伝えることは、想像よりも難しく、フィギュアスケートに精通している、もしくは私のことを事前に調べて下さっているインタビュアーの方からの質問に答えるようなインタビューとは全く異質なものでした。

結果的に、就職活動において50回近くの面接を受けることになりましたが、本寄稿ではその経験と反省から、「体育会学生の強み」を3点挙げた後に、体育会学生が就職活動において、まずするべきことをアドバイス出来ればと思います。

1.試行錯誤によって養われる忍耐力

体育会学生は、大学入学から競技を開始したとしても、4年間ほぼ毎日同じ競技に打ち込みながら、自身のプレーや練習内容を試行錯誤してきたことになります。それぞれの競技歴を長いと感じるか短いと感じるかは人それぞれではありますが、逆にほとんどの人が、競技以外で競技歴より長く、同じことをやり続けた経験はほとんどないはずです。辛く厳しい練習の中でも、思考を巡らせながら上達したい、勝ちたいと踏ん張ったその姿勢は必ず自身の財産になっており、社会に出ても間違いなく役立つスキル・モチベーションになっているはずです。

20年12月の全日本選手権で同学年の仲間たちと撮影。左から小林建人、本田太一、友野一希、小林諒真(本人提供)

2.無数の失敗体験と一握りの成功体験

私が初めて競技会に参加したのは、小学2年生の西日本中小学生大会で、結果は7人中5位でした。比較的運動神経も良く足も速く(当時の太一少年にとって脚が速いのは唯一無二のアイデンティティーでした)、スケートも得意だと自分では思っていた私は、当時のコーチに演技後、「何とか最下位じゃなくて良かったね」と言われてふてくされてしまったのを今でも鮮明に覚えています。そこからスケートに少しずつ真剣に打ち込むようになり、次に出場した全関西大会では、出場選手2人ながら初めて優勝することが出来ました。

何度かインタビューで触れていますが、この時に対決したのが、現同志社大学4年生の友野一希です。一希は、大学卒業後も現役を続行し、北京五輪を目指して努力を続ける選手です。応援よろしくお願いします。

21年1月に行われた冬季国体で友野一希(左)と大阪府代表として出場、2位に入った(本人提供)

話が脱線しましたが、私は小学2年生から15年間、年間平均8~10試合出場していたので、単純計算で120~150試合、ショート・フリーの両演技や試合以外の演技会、テストなどを合わせると300回以上の演技をしてきたことになります。その中で、満足のいく演技は体感1割にも満たなかったので、数え切れない程の失敗と涙を重ねて、また練習を重ねてきたことになります。

自分を「良く」見せるために、一握りの成功体験を思い返して面接官に伝えたい気持ちは苦しいほど分かりますが、それよりも素直に、無数の失敗体験から立ち上がった姿勢、経緯、葛藤(かっとう)を伝えることも、成功体験を語ることと同等、時にはそれ以上に重要であると感じました。

17年間も同じスポーツを続けていると、この生活が当たり前になってしまいましたが、実は成功体験よりも失敗体験こそが、体育会の強みであり、就職活動中の私自身を含め、体育会の学生が気付けていない、もしくは最も過小評価してしまいがちなポイントだと思います。

3.変化への対応から養われるコミュニケーション能力

競技を長く続けていると、日々環境の変化が付きまといます。特に大学では、チーム編成(チーム内のポジション、組織としてのポジション、コーチ陣など)の変化、学年(上下関係や自身のチーム内での立ち位置)の変化、授業との兼ね合いによる練習時間の変化など、様々な変化に対応する必要性があります。個人競技であっても、組織に属する以上、チーム内で円滑に練習を進めるための工夫や先輩後輩、コーチ陣との対話から、「ノリの良さ」という意味合いのコミュニケーション能力ではなく、「ビジネスマンとして通用する」コミュニケーション能力が自ずと身に付いている可能性が高いと言えます。

体育会学生が就活でまずするべきこと

以上3点が、大まかではありますが、就職活動における体育会学生ならではの強みであると私は仮定しました。多くの体育会学生は、自身の経験からこの強みに納得出来るのではないかと思います。しかし、「忍耐力がある」「多く失敗をしてきた」「コミュニケーション能力が高い」、これだけでは書類選考はもちろん、面接においても話が深まりません。

この強みを、自身の経験やそこからの工夫・葛藤・成果などを含めて言語化、さらに体育会として以外のオリジナルな強みや経験を肉付けすることで、面接においても深みのある回答が出来るようになり、それが結果的に面接において重要なポイントとなる、他者との差別化につながるのではないかと思います。私にとっても、この「経験の言語化」「他者との差別化」が就職活動における最大の難所であったことは間違いなく、一番時間と労力を割くべきフェーズであったと振り返ります。

21年1月の冬季国体では万感の思いで演技を終えた(代表撮影)

私は4月からフィギュアスケートに別れを告げ、社会人として働き始めます。学生時代に自由な時間を削りながらも懸命に、4年間ないしはそれ以上の競技人生を送って来た体育会学生の皆さんが、体育会という力強い肩書きを持ちながらも、自身の魅力を上手く伝えられないままに就職活動を終えてしまうことがないよう、また、本寄稿とは論点がずれますが、アスリートのセカンドキャリアが今後さらに確立されることを願って、簡単ではありますが、私からの寄稿とさせて頂きます。

本田太一

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