星稜・寺沢孝多 「最後の夏にベストを出せた」痛恨の1球から仲間と戻った大舞台
夏の甲子園でタイブレークが導入されたのは第100回記念大会(2018年)から。2回戦の星稜(石川)-済美(愛媛)戦は大会2試合目のタイブレークに突入した。延長十三回、先攻の星稜は2点を挙げ、マウンドに向かったのは九回から無失点に抑えていた2年生の寺沢孝多(近畿大学2年)だった。
史上初、逆転サヨナラ満塁本塁打
劇的な試合展開となっていた。星稜は初回に5点を先制し一時は6点リードした。しかし、好投していたエースの奥川恭伸(ヤクルト)が足を攣(つ)って4回で降板。以降、小刻みに継投したが、済美の勢いを止められなかった。八回に8点を奪われ逆転された。九回に2点を返して何とか追いついた。九回表の攻撃で、投手に代打が送られた。既に5人の投手が投げている状況から、寺沢は急ピッチで肩を作り、その時に備えた。
九、十回を三者凡退に抑えた。十一回は四球を出し、十二回は長打を浴びたが、後続を断った。十三回から「無死一、二塁」から始まるタイブレークに。いきなり無死でランナーを背負うことになり、どこかに気負いがあった。9番打者に三塁への内野安打を許して満塁となり、矢野功一郎(環太平洋大学2年)に投じた内角低めのスライダーを矢野がすくい上げ、打球は右翼方向に。弾道を見ると徐々に右翼ポールの方に切れていくかのように見えた。
「打たれた瞬間は『ヤバい』と思ったんですけれど、打球が切れていったので大丈夫かなと思ったんです。でも、歓声とか審判の方が腕を回しているのを見て『入ってしまったんだ』と。ああいう打球だったので、スタンドの湧き方が二段階になっていたのを覚えています」。右翼ポールを直撃する大会史上初の逆転サヨナラ満塁ホームラン。あまりの劇的な幕切れに、試合後はしばらく球場内のどよめきが止まず、寺沢投手は両手をひざにつき、うつむいたままだった。
「僕としてはもっと先輩と一緒に野球がやりたかったですね。(同級生の)2年生が多いチームで、奥川や山瀬(慎之助=巨人)や東海林(航介=東海大2年)もみんな泣いていて……。自分もインタビューでは答えられてはいましたが、あの場面はしばらく頭から離れませんでした」
心を鬼に、奥川らと再び全国を目指す
帰郷するとすぐに新チームが始動した。いつまでも引きずっていては何も変わらない。練習ではあえて心を鬼にして、ランニングメニューでは誰よりも長く、速く走ることを心掛けた。「個人としては全国では通用しないと思いました。3年生の方の思いもあるので、来年の甲子園で優勝することが恩返しだと思いました」
黙々と練習を積む中で、寺沢にはかけがえのないライバルがいた。済美戦で先発した150km以上の速球を誇る当時、世代ナンバーワンと言われていたエースの奥川だ。
「奥川は中学時代から知っていたんですけれど、同じ星稜高校に来ることになってむしろうれしかったです。実際に初めてブルペンを見た時、ボールの質が周りとは違うとすぐに感じました。キャッチボールをしたら、ボールの勢いが違うし、自分が構えたところにほぼボールが来る。ただ、奥川1人が目立って、彼だけに頼っているようではチームは勝てないと思ったので、奥川だけじゃないというところを見せたかったんです」
寺沢自身もストレートの強さ、質にはこだわってやってきたつもりだった。貴重な左腕として期待されていたが、「左腕だから、という気持ちはありませんでした。自分もやってやるんだという気持ちだけで練習してきました」と、奥川に負けない存在感を出そうと必死だった。普段は仲の良い奥川とは試合前にいつもキャッチボールをしていた。奥川の存在は誇りであり、自身のモチベーションアップの源でもあった。
星稜は18年の選抜大会から4季連続で甲子園に出場した。寺沢たちが3年生になって戻ってきた第101回全国選手権大会の3回戦の智辯和歌山(和歌山)戦。この試合前だけは、ライバルと思ってきた奥川に大きな違いを感じたという。
「キャッチボールの時の球の勢いが違っていたんです。その時から今日は気合いが入っているなと。あの試合のピッチングは今まで見た奥川の中で一番忘れられません」
奥川は延長十四回を一人で投げ抜き、被安打3の1失点、23奪三振をマークした。
寺沢はその前の2回戦、立命館宇治(京都)戦の九回にこの夏の甲子園初登板が訪れた。3年春のセンバツは登板がなく、マウンドに立ったのは済美戦が行われた2018年8月12日から366日ぶりだった。「2年生の時に春も夏もマウンドに立っていたので、何度も見てきた景色やなとは思いましたが……先頭打者にいきなり4球連続ボールで四球を出してしまったんです。思ったより緊張していたのですが、伝令が来た後に内野のファインプレーなどもあって、切り替えて投げられるようになりました」
恩返しの準優勝
その後は3人で打ち取ってゲームセット。この試合を含め、準々決勝の仙台育英(宮城)戦、準決勝の中京学院大中京(岐阜)戦、投げた3試合はすべてリリーフだった。合計で5イニングを投げ、被安打2で無失点。奥川の快投が光る中で抜群の安定感を見せた。ただ、先発や中継ぎではなく、なぜ自分がリリーフだったのか。理由は大会後にこう聞かされたという。
「林先生(=和成監督)が、勝った瞬間に自分にマウンドに立って欲しかったので、試合の最後を自分に任せたかったそうです。甲子園では準優勝でしたけれど、最後まで甲子園で試合ができましたし、最後の夏に自分のベストのものが出せたので、そこは良かったです」
関西の雄、近大でもまれる
寺沢は近畿大学に進学し、1年の秋から関西学生野球リーグ戦のマウンドを経験している。自身では「まだまだです」と謙そんするが、「大舞台を経験しているし、頼もしい存在」と近大の田中秀昌監督は寺沢のメンタルの強さにも信頼を寄せている。
「高校で凄(すご)いと思ってきたバッターと大学でも対戦することが多いのですが、桃谷(惟吹、大阪・履正社高→立命館大学2年)や有馬(諒 滋賀・近江高→関西大学2年)には打たれているので悔しいですね。いずれは星稜のあの時のメンバーと、全国の舞台で対戦したいです。そのためにももっと頑張っていかないといけない。個人としてはプロを目指していきたいのですが、高校の時にすごいと思ってきた奥川がプロで打たれた場面を見ると現実に戻ってしまいます。でも、いずれは同じ舞台に立てるように頑張ります」
最後の夏は準優勝でも、先輩には粘投する姿を見せることができた。「悲劇」を引きずらず、ライバルと切磋琢磨して最後の夏を快投で終えたことは、きっとこの先も生きるはずだ。