陸上・駅伝

早稲田大・半澤黎斗、インターハイ覇者の苦悩 ラストイヤーは地元・福島への思い胸に

半澤(中央)は1500mで鍛えたスピードを武器に駅伝を戦う(撮影・藤井みさ)

半澤黎斗(れいと、4年、学法石川)は早稲田大学に入学する際、「1500mで早稲田記録(3分42秒58)の更新」「学生駅伝三冠」という目標を定めた。しかし1500mはインターハイを制した時にマークした3分44秒57(当時高校歴代2位)を更新できなかった。「今は駅伝で結果を残すことを考え、目の前のことに集中しています」。大学に上がってからは悔しい思いをすることの方が多かった。だからこそ「学生駅伝三冠」だけは譲れない。

早大ルーキー半澤黎斗「立ち直る力」を大学でも

強豪・学法石川の先輩たちにもまれ

福島県の広野町で生まれ育った半澤は3歳の時にサッカーを始め、中学校に上がってからもクラブでサッカーを続けた。学校では陸上部に所属していたが、あくまでもサッカーのための体作り。部活に行くのは週に1~2回だった。それでも東北大会3000mで6位に入り、福島代表として都道府県駅伝に出場した。高校でもサッカーを続けるつもりだったが、「陸上の方が伸びしろがあるのではないか」と思うようになってからは、地元の強豪校である学法石川高校への進学を決めた。

陸上部での経験が浅かった半澤はまず、BチームやCチームでじっくり基礎作りができればと考えていたが、松田和宏先生はすぐに半澤をAチームに入れた。厳しい毎日ではあったが、先輩たちとの共同生活に救われたという。学法石川には陸上部専用の下宿場があり、半澤もその下宿所で先輩たちと生活をともにしていた。2つ上には相澤晃(現・旭化成)などもおり、「オンとオフがはっきりしていて、部活中はしっかり、でも部活が終わったら一緒に遊びに行くなど、外から見ていたよりも相澤さんたちはすごく近い存在でした」と半澤は言う。

半澤は学法石川に入学してすぐにAチームに入り、力のある先輩たちの中で鍛えられた(撮影・朝日新聞社)

専門を1500mに定めたのは先輩たちの影響だった。半澤が1年生だった時に2つ上の田母神一喜(現・阿見アスリートクラブ)がインターハイで1500mを制し、その翌年には1つ上の遠藤日向(現・住友電工)が学法石川で2連覇を達成。「自分が後に続いて3連覇をしたい」という思いから半澤も1500mに注力し、同期の久納碧(法政大4年、学法石川)と切磋琢磨(せっさたくま)しながら力をつけていた。半澤は高3で初めてインターハイに出場。「松田先生も含めて周りの人は久納の方が優勝に近いと思っていたと思います。だから全国で勝つというよりは、同期に勝ちたいという意識で挑みました」。それが良かったのか、決勝もあまり緊張することなくスタートラインに立ち、久納は4位、半澤は初優勝を成し遂げた。

その一方で、全国高校駅伝(都大路)には苦い思い出がある。半澤は1年生の時から出場しているが、特に2年生の時は急きょ1区を任され、区間最下位と苦しんだ。1区は別の選手がエントリーしていたが、その選手が直前になって体調を崩し、出場できなくなった。半澤が走らなければチームは棄権となる状況で、半澤も40度ちかく熱があったものの、先生やスタッフに言い出せなかったという。なんとか襷(たすき)をつなぎ、半澤はその場で泣き崩れた。

苦しめられた3年間、チームのために主将に立候補

進学先に早稲田大を選んだのは2011年、早稲田大が史上3校目となる学生駅伝三冠を成し遂げたことが大きかったという。当時の半澤は小学5年生。「元々小さい時から箱根に憧れはあったんですが、特にあの年は実家で見た最後の箱根だったこともあり、ずっと印象に残っているんです」。その年の3月11日に東日本大震災が起き、家族はそろって隣のいわき市に転移した。半澤が早稲田大に進む前に家族はまた広野町に戻ることができたが、半澤は復興半ばの町を前にして、「自分が走る姿で地元の人々を勇気づけたい」という思いを強くした。

1年生の時に全日本大学駅伝で5区を走り、区間14位だった(撮影・松嵜未来)

大学ではすぐにAチームに混じって練習を始め、ルーキーイヤーに出雲駅伝と全日本大学駅伝を経験。しかし2年目は箱根駅伝のみの出走となり、3年目の箱根駅伝は当日変更でメンバーから外れた。中学・高校では同期に負けたことがなかっただけに、同期に勝てない日々に「毎年苦しめられています」と漏らす。それでも現状にどうアプローチするか、自分の体と相談しながら気持ちを切らすことなく練習を継続している。

自分たちの代の主将を決める際、半澤は「学生駅伝三冠のためにチームを変えたい」という思いから主将に立候補した。最終的には千明(ちぎら)龍之佑(早稲田大4年、東農大二)と半澤の2人に絞られ、互いに思っていることをぶつけ合ったという。

「主将としてどんなチームにしていきたいのか、どんな主将を目指すのか。僕は環境を変えたいなと思っていたし、そのためにどうしたらいいのかを僕なりに考えていました。千明は時間やルールにルーズなところもあったから、『それができないなら、そこに強い覚悟がないなら俺がやる』と伝えたこともありました。そういうのってなかなか言えないものだと思うんですけど、でも言わないと伝わらないし変わらない。自分の性格的なものもあるけど、それが自分の役目なのかなとは思っていました」

話し合いの結果、千明が主将となり、半澤は副将となった。それから半年が過ぎた今、「一番変わったのは千明」と半澤は言う。千明はそれまでけがで練習を継続できないことが続いていたが、4年生になってからは自主的にウェートトレーニングにも取り組み、今年6月の日本選手権5000mでは初出場ながら13分39秒04の好タイムで学生トップの8位入賞を果たしている。「キャプテンとしての覚悟というか、みんなからは見えないところでも頑張っている」と半澤は千明をたたえる。

2年生の時に半澤(左)は初めて箱根駅伝を走り、6区区間19位と苦しんだ(撮影・佐伯航平)

初めてのBチーム、それでも前向きに

6月以降、半澤は体調不良で1カ月程度走れない日々が続き、「AチームだけでなくBチームの底上げにも貢献してほしい」と相楽豊監督に言われ、夏合宿は自身初のBチームで練習をしている。これまでAチームで走ってきただけに悔しさがこみ上げてきたが、副将としてチームの一体感を高める機会にもできればと考え、今は前向きに取り組んでいる。夏合宿が明ければまたAチームに戻る予定だが、Aチームよりも量をこなす練習の中でスタミナを強化でき、自分の体を見つめ直すきっかけにもなっているという。

大学での1500mは5月の関東インカレがラストレースとなった。結果は3分49秒26で予選落ち。後輩の菖蒲敦司(早稲田大2年、西京)が2位となり、そのメダルを半澤の首にかけてくれたという。個人としては悔しい。それでも後輩の頑張りが結果に表れたことはうれしかった。「1500mの難しさと楽しさは大学で続けていなければ分からないところですし、駅伝につながるスピードを1500mで養えたと思っています」。届かなかったこの悔しさは、駅伝で晴らす。

1500mで鍛えたスピードを生かし、ラストイヤーこそは走りでチームに貢献したい(写真提供・早稲田大学競走部)

ラストイヤーでは学生3大駅伝全てに出場し、自身の走りで「学生駅伝三冠」をたぐり寄せる。「自分が走る姿で地元の人々を勇気づけたい」。早稲田大入学前、地元・広野町で胸に宿したその思いは今も変わらない。

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