明治大学の西嶋一記コーチ、メジャー挑戦など異色の球歴を指導に生かす(下)
2019年の森下暢仁(広島)、20年の入江大生(DeNA)と2年連続プロ野球ドラフト会議で1位指名投手を送り出した明治大学の西嶋一記コーチ(32)は、明大の左腕で活躍した後、海を渡ってメジャーを目指した経験があります。帰国後は社会人チームでもプレーしました。2回目は名門の横浜高をはじめとする球歴から受けた影響と指導理念を聞きました。
質が高い野球を叩き込まれた横浜高時代
「野球人・西嶋」が形成されていく上で、最初に影響を受けたのが、父親の成春さんだ。
小学時代に入っていた西が岡ベアーズ(横浜)の監督でもあった。「毎日のようにボールを受けてもらいました。僕のコントロールが良かったのは、父の指導があったからだと思います」。横浜市立上飯田中学では瀬谷シニアに所属。野球自慢の少年が集まる中でエースとなり、3年春には全国大会で準優勝を果たした。
神奈川では評判の投手となった西嶋は横浜高の門を叩く。実は別の学校を考えていたという。「横浜は全国有数の野球エリートが集まるところなので、あそこは僕が行ける学校ではないと(笑)」。それでも入学後すぐに背番号「10」をもらい、春の公式戦にも登板。3年春は、エースの座は同期の川角謙(青山学院大を経て東芝でプレー)に譲ったものの、第78回選抜高校野球大会(2006年)で優勝を経験した。夏の第88回全国選手権にも出場した西嶋は、春夏合わせて甲子園で計3試合、救援登板をしている。チームには他の同期に福田永将(中日)や下水流昂(楽天)ら、1学年下には髙濱卓也(ロッテ)ら後にプロ入りするそうそうたる選手がいた。
横浜高では、渡辺元智元監督と小倉清一郎元部長から、質が高い「横浜高野球」を叩き込まれた。
「ベースの踏み方1つ取っても、なぜこうするのかと、細かく指導を受けました。投手としての配球も、突き詰めて考えることを求められましたね。準備の大切さも学びました。高校野球界では知られていることですが、横浜高では100回に1回あるかないかのプレーも想定し、そのための練習もするんです」
精神的にも肉体的にも鍛えられた。2年夏は神奈川大会で敗れると、新チームが始動する前に1週間、群馬の寺で座禅を組んだ。「渡辺(元)監督から『お前たちは技術以前に気持ちが弱い』と言われまして(苦笑)」。自校の長浜グラウンドに戻ると、連日の猛練習が待っていた。西嶋ら投手陣は、先輩の松坂大輔(西武)や涌井秀章(楽天)も鍛えられたアメリカンノックの打球を懸命に追った。翌春の選抜制覇は、こうした中で選手たちが成長し、つかんだものだった。
「野球が上手なちょっとやんちゃな少年が、野球を通じて人間として成長する。それが横浜高のスタイルでした。人間的な成長が野球の技術を高めると、『人間力野球』をモットーとしている明大とは反対の考え方ですね」
まずは大学でケガをしない体作りから
明大では1年春にリーグ戦登板を果たしたが、2年の春を前に試練が訪れる。左肩のケガである。「ずっと自分の感覚だけで投げてきて、ケガをしないためにどうすればいいか考えていなかったのが原因かと。大学でやるからには自分の体に投資をしなければ、とも思いました」
ケガの経験は指導にも生かしている。新入生にはトレーニングコーチとも話をしながら、大学で壊れないための体作りをやってもらっているという。「明大に入ってくる投手はたいてい、強豪のエースで高校時代に投げまくっています。僕がそうだったように、体やフォームのことをあまり考えずに、勢いだけでやってきた投手も多い。蓄積疲労もあるので、高校と同じように投げたらすぐに故障してしまいますからね」
西嶋はトレーニングで個々の体の特徴を観察し、それぞれに合った投げ方をアドバイスもしている。
大学野球では高校で名が知れた選手が、ケガや伸び悩みでなかなか台頭できないケースが少なくない。西嶋も左肩のケガもあって、3年秋に3勝するまでリーグ戦では未勝利。歯がゆさ、焦りなど、選手が置かれている状況がよくわかるようだ。
プロ入りした昨年のエースに焦るなと助言
昨年のエースだった入江も台頭するまで時間がかかった1人だ。作新学院高3年夏は投打の二刀流で、第98回全国高校野球選手権で優勝。投手に専念した明大でも大きな期待をされていたが、3年秋までリーグ通算2勝5敗と結果を出せずにいた。西嶋はそんな入江と向き合いながら、テークバックの修正を助言した。
「ダイナミックなフォームが入江の持ち味なんですが、大きなテークバックが体の動きにマッチしていなかったんです。そこで2人で考えて、野手のようにコンパクトな形にしました」
テークバックを修正し、フォームが安定した入江は、4年になり明大のエース番号「11」を背負うと、急成長を遂げる。スカウトの評価も高まり、前年のエース森下に続く形で「ドラ1」の称号も手に入れた。
プロ入り後は初勝利を挙げられないまま、8月には右肘(ひじ)のクリーニング手術をすることになったが、西嶋は入江から連絡があるたびに「長い目でプロ生活を考えればいい」と話をしているという。
「即戦力で入団したのに……という思いもあるでしょうが、そもそも昨年はコロナでリーグ戦の試合数も少なく、あまり投げていませんからね。その状態で毎日試合があるプロに入ったら、すぐに結果を出すのは難しいでしょう。焦らずに何年か先を見据えるようにと、入江には伝えています」
選手とのコミュニケーション術は、明大時代の恩師である善波達也前監督から学んだという。「善波さんは、学生との会話を大切にしていました。それをずっと見てきたので。グラウンドに行ける日数は限られてますが、できるだけ多くの選手に声をかけるようにしています」
世界で活躍する投手が出てきてほしい
アメリカから帰国後、熊本ゴールデンラークス(活動休止中)と強豪SUBARUの2つのチームに在籍した社会人時代は「思うようなピッチングができず、苦しかった」という。
「計4年間、社会人で投げましたが不本意でしたね。原因はフォームです。アメリカはマウンドの土が硬いので、それに合わせた投げ方をしてました。日本に帰ってから、柔らかいマウンドに対応するフォームに修正したんですが、なかなかしっくりいかず……(2015年の東京スポニチ大会では優勝投手になったが)結果も出せませんでした」
16年限りで引退した西嶋に声をかけたのが、当時の善波監督だった。18年12月に学生野球資格を回復し、19年春より明大のコーチになった。現在32歳で、現4年生とは10歳違い。指導陣の中では最年少である。
「これからも“選手が成長するためのお手伝い”というスタンスは変わらないと思いますが、明大野球部から世界の舞台で活躍する投手が出てきてくれたら、と。指導者としてそのきっかけを作ってあげたいですね」
そこには自分が果たせなかったメジャーリーガーになる夢を託すところもあるかもしれない。まずは19年春以来の優勝に向け、ドラフト候補でもあるエース竹田祐(4年、履正社)を中心とする投手陣をコーチとして支える。