野球

明治大学の西嶋一記コーチ、メジャー挑戦など異色の球歴を指導に生かす(上)

2019年の全日本大学野球選手権で明治大学は38年ぶりに優勝、胴上げされる西嶋一記コーチ(写真は本人提供)

明治大学野球部の西嶋一記コーチ(32)は、海を渡ってメジャーを目指した経験があります。横浜高から明大と野球の名門でプレーし、帰国後は社会人チームでも活躍した西嶋コーチにこれまでの道のりや指導法を聞きました。2回に分けてお伝えします。

感無量だった五輪での教え子の雄姿

「あの場に立っているのが信じられないくらい。本当に感無量でした。彼に関わらせてもらった人間にとって、こんなにうれしいことはありませんでした」

東京五輪の野球決勝で勝利投手になった森下暢仁(撮影・長島一浩)

西嶋コーチ(以下、西嶋)が回顧するのは、東京オリンピックの野球決勝だ。この試合で先発を託されたのは広島の森下暢仁(まさと)。西嶋が明大の投手コーチになった2019年、主将兼エースだった。森下は5回3安打無失点で勝利投手になり、正式競技になって日本初の金メダル獲得に貢献した。

森下暢仁、米国を5回無失点 「どの球も通用」監督の期待に応えた

「大学では3年秋までは(通算9勝していたが)肝心なところで打たれてました。課題は精神面だったんですが、4年生で主将になったのが大きかったですね。その責任感で春は大学日本一に導いてくれました。プロでも(去年は新人王になるなど)活躍してますが、まだ成長途中では。持っているものからすれば、もっと進化できる投手だと思います」

この試合、相手のアメリカ代表チームにも西嶋と縁がある投手がいた。最後の3人目として登板した東京ヤクルトのスコット・マクガフである。彼とは2011年、同じMLBドジャース傘下のルーキー級のチームでプレーした。

米マイナーから戻って社会人野球

アマチュア野球界広しといえど、西嶋ほど異色の経歴を持つ指導者はいないだろう。明大卒業後、思い切って海を渡った。メジャーリーガーになる目標は叶(かな)わなかったが、帰国後は熊本ゴールデンラークス(活動休止中)と強豪SUBARU(2017年4月より富士重工業から社名変更)の2つの社会人チームでプレーした。西嶋は「その全ての経験が今に生きていると思います」と言う。

中でも濃い日々だったのが、アメリカでの2年数カ月だった。もともとメジャーに対する憧れは強かった。最初に芽生えたのは、シニアの全日本チームの一員で渡米した中学3年の時。現地でジャイアンツとカブスの試合を観戦する機会があり、バリー・ボンズとサミー・ソーサという、当時のスーパースターの打撃に度肝を抜かれた。そして、大学4年春には野球部の創部100周年の一環で、アメリカでのキャンプを経験。ドジャースの施設でも練習を行い、メジャーへの思いはますます膨らんだ。

明治大学では3年秋の優勝に貢献するなど通算6勝を挙げた(写真は本人提供)

明大では3年秋(2009年)に最優秀防御率で優勝に貢献するなど通算6勝5敗で10年のプロ野球ドラフト候補に名前が挙がった。プロ志望届を出したが、結果は指名漏れに。その後、ドジャースからオファーがありマイナー契約に至った。

「ああいう環境で野球をしたいと、お話があった時にすぐに決心しました」

何年かマイナーで過ごした後、メジャーに上がれる自信もあった。大学2年になる直前に左肩を故障した関係で、ストレートの最速こそ140㎞台半ばだったものの、定評があった多彩な変化球と制球力で勝負するつもりだった。

メジャー予備軍のレベルの高さに驚く

海の向こうのベースボールは、西嶋が描いていた以上にレベルが高かった。

「1年目、同じチームでショートだったのが、昨年のワールドシリーズでMVPになったコーリー・シーガー(ドジャース)でした。センターにはジョク・ピーダーソン(ブレーブス)が。ともに前年まで高校生だったとは信じられないほど、豪快な打球を飛ばしてました。高校時代、彼らに甲子園で金属バットを持たせたらどんなことになっていたか……メジャー予備軍のすごさを思い知らされました」

それでも2年目は16試合の登板で8勝をマーク。翌シーズンに向けて手応えをつかんでいたが、3年目のスプリングトレーニング(春のキャンプ)の最中に解雇を告げられる。「理由はスピードだったと思います。チームが平均で150㎞投げられるパワーピッチャーを求めていた中、僕の投球スタイルは方針に合わなかったのでしょう」

アメリカに渡りメジャーを目指した(撮影・朝日新聞社)

アメリカではコーチからメジャー流の教えも授かった。西嶋は2つのことが印象に残っているという。

「1つは高・低に投げ切れ、ということです。中途半端な高さに投げるなと、徹底させられました。もう1つは常に攻める気持ちを持てと。たとえ打たれても顔を上げて、平然とした表情でいろと。ふだんの会話はとてもフランクなんですが、これも強く言われましたね」

メジャーの奥深さ、野球文化の違い、日本とは異なる指導法……2年数カ月ではあったが、シーズン中はバス移動が続き、食事も質素なルーキーリーグの生活の中で、得難い経験を蓄積し、視野が広がった。「もしアメリカに行っていなかったら、学生に接する時、今のようなアプローチはしていなかったと思います」

大切にするのは「選手自身がどうなりたいか」

現在はSUBARUの社員として人事の仕事をしている。指導ができるのは週末や祭日に限られるが、平日もマネージャーの雨宮志遠(しおん、2年、明大中野八王子)らから送られてくる、各投手の投球フォームの動画をチェックし、気付いたことをオンラインなどで伝えている。肩書きもあるコーチではあるが、西嶋には“自分が指導している”“教えている”という意識は全くないという。

「選手が成長するためのお手伝いをしているだけなので。その中でも大事にしていることはあります。それは選手自身がどうなりたいか。目標設定ですね。面談や書面で明確にしてもらってます。現在地を踏まえながら、目標に到達するために一緒に考えている、という感じでしょうか」

「目標設定」は企業の人事担当として活用していることでもある。「選手にも必要だと考え、取り入れました。しっかり目標を設定することが、それぞれの成長の第一歩になると思います」

熊本ゴールデンラークス時代の経験が指導にも生きている(写真は本人提供)

今ではすっかり企業人が板についている西嶋だが、初めて“仕事”をしたのは帰国後の24歳の時だった。代表の田中敏弘氏が明大野球部のOBという縁で入った熊本ゴールデンラークスは、チーム方針が「働かざる者野球するべからず」。野球が主ではなく、練習も1日フルに働いてからだった。西嶋も野球部のユニホームを模した店員用のユニホームを着て、母体であるスーパーマーケットチェーンの店頭で商品を売った。

「僕はアルバイトをしたこともなかったので、最初は戸惑いました。でも一生懸命に働かないと、野球部が他の社員から応援してもらえない。必死でしたね。ずっと野球しかしてこなかったので、その生活が普通でしたが、野球ができるのは当たり前ではないと気付くこともできました。選手を引退してからもSUBARUで働くことができているのも、あの経験があったからです。明大の野球部でも、プロや社会人で野球を続けられる部員は限られています。学生たちには野球ができる時間を大切にしながら、社会に出る準備もしてほしいと思ってます」

【続きはこちら】選抜大会優勝の横浜高など多彩な球歴を指導に生かす

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