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連載:4years.のつづき

「独立せえよ」上原浩治からの思わぬ言葉 澤井芳信・3

2006年シーズンを最後に引退した澤井さん(左)は、転職したスポーツマネジメント会社で上原投手(右)と出会った(写真は本人提供)

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。学生時代に名をはせた先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ7人目は、上原浩治投手(巨人)らアスリートのマネジメントを手がける株式会社スポーツバックスの代表取締役・澤井芳信さん(38)。3回目は社会人野球で苦しんだ経験、そしてスポーツマネジメントの世界へ転身し、独立を決意するまでの話です。

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社会人野球で味わった試練

澤井さんは2003年から、社会人野球の市民球団「かずさマジック」に所属することになった。新日鉄君津を母体とした企業複合型チームで、澤井さんは千葉県の住宅会社・新昭和の社員として働きながらプレーした。社会人1年目、チームは都市対抗と日本選手権に出場し、澤井さん自身も試合に出ていたが、思わぬ試練に襲われた。

1年目の終わりごろから、ショートからファーストへの送球に違和感を持つようになった。2年目のある試合でゴロを捕球し、一塁へ悪送球してしまった。直後、選手交代を告げられベンチへ。イップスだ。とくに野球やゴルフの選手に多く見られる運動障害である。緊張感や強い自責感が原因で筋肉が硬直し、思い通りのプレーができなくなる。

澤井さんは自力でイップスを直そうと、他の選手が練習を終えて帰ったあとも一人、グラウンドでスローイングの練習を続けた。コンディショニングトレーニングやストレッチを繰り返し、指とボールが離れる瞬間の感覚が徐々に戻ってきた。あきらめずに取り組み、社会人3年目の春にはほぼ完治。バッティングピッチャーができるまでに回復していた。

しかし、1年目の終わりごろからほとんど試合には出られなかった。自分の納得いくパフォーマンスが出せなかった。自分のチームにも対戦相手にも、自分より優れた選手がたくさんいて、その中でもドラフトで指名されるのは、ほんの一握り。「プロ野球選手になりたい」という思いが、自分の中で薄れていくのが分かった。

映画『ザ・エージェント』に心を動かされた

「高校生のときに、トム・クルーズの『ザ・エージェント』っていう映画を見たんです。スポーツのエージェントという仕事を知って、“こういう世界があるんや”って思って、ずっと興味を持ってたんです」

社会人3年目ぐらいから転職を考えるようになった。そんな折、京都成章高校時代の先輩がスポーツマネジメントの会社で働いており、その会社に求人があることを知る。すぐに連絡を取り、運よく転職が決まった。社会人4年目の06年シーズンを最後に引退し、会社もやめた。

スポーツマネジメント会社へ入社して最初のころは、所属する元アスリートの飲食店を深夜まで手伝うことも業務の一つだった。思い描いていた世界とは少々違ったが、それまで野球一色の生活を送っていた澤井さんには、新鮮な経験だった。

「周りから見たら『お前、何やってんねん』って話ですね(笑)。しんどかったですけど、勉強になりました。厨房も洗い場もホールも全部やりましたから。だし巻き卵の巻き方、めっちゃうまくなりましたよ(笑)」

元アスリートの経営する飲食店で、バイトの面接からホールまであらゆる業務を経験した

そして徐々に、アスリートのマネジメントも担当するようになる。シンクロスイマーの武田美保、競輪の長塚智広のマネージャーとして、澤井さんの日々はさらに忙しくなった。

「やっとスポーツマネジメントの仕事ができるようになったんです。志してたのはエージェントで、マネジメントとはちょっと違ったんですけど、近い仕事ですから」

上原投手から「独立せえよ」

入社2年目の08年、のちに澤井さんの人生を大きく左右する人との出会いがあった。巨人の上原浩治投手がFA権を行使してメジャーリーグのボルティモア・オリオールズに移籍することになり、自身のマネジメントを任せるパートナーとして、澤井さんが勤めていた会社と契約。澤井さんが現場マネージャーに抜擢(ばってき)されたのだ。上原と球団との契約に同行した澤井さんは、あこがれていたアメリカの地を初めて踏んだ。一旦帰国したのち、そのシーズンは澤井さんもボルティモアで暮らすことになった。スプリングトレーニングの期間中は上原を球場まで送り迎えした。シーズン中、上原が遠征で自宅を空けるときは家族のサポートにもなった。

2年間のボルティモアでの生活を経て、担当3年目からは日本とアメリカを行ったり来たりの生活となる。メジャーリーグの世界で刺激を受ける中、次第に会社の方針と自分のやりたいこととのズレを感じるようになった。大学院で勉強し直したいという気持ちも強くなり、13年4月に早稲田大の大学院・スポーツ科学学術院に入学。その流れで退職することになる。地域活性化におけるスポーツの役割や、スポーツやアスリートの価値をいかにして世の中に提供できるかなどを学ぶためだった。

あこがれていたメジャーリーグの世界に触れ、澤井さんは新たなスタートを切ることになる

マネジメント会社を退職し、大学院で勉強することを上原に報告するため、澤井さんは単身、アメリカへと飛んだ。そこで上原から思わぬ言葉をかけられる。

「上原さんが『お前と一緒に仕事するから、独立せえよ』って言ってくれたんです。うれしかったです。アメリカで現場マネージャーをしていたとき、至らない点も多かったと思うんです。それでも上原さんは、僕と仕事をすると言ってくださった」

4years.のつづき

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