環太平洋大・源裕貴、陸上嫌いの少年が日本記録保持者へ これからも「楽しい」を追求
源裕貴(環太平洋大4年、美祢青嶺)はラストイヤーの今年、大会に出る度に800mの自己ベストを更新し、7月のホクレン・ディスタンスチャレンジ千歳大会では1分45秒75と日本タイ記録をマーク。昨シーズンから自己ベストを4秒以上更新する急成長を見せてきた。9月19日の日本インカレ800m決勝は、準決勝で足を痛めた影響で持ち味のスピードを発揮できず、1分51秒48での3位ではあったが、「今の状態で最低限の走りはできた」と源は言う。
800m元日本記録保持者でもある横田真人さん(TWO LAPS代表兼コーチ)も「今後の中距離を背負う選手」と期待を寄せているが、源自身は進んで陸上を始めたわけではなく、本格的に中距離の練習を始めたのも環太平洋大学に入ってからだった。「800mに出会わせてくれた先生に感謝です」と笑顔で話す源の強さはなんなのか。
野球でもなくバレーでもなく
山口県美祢市出身。父は全国高校駅伝(都大路)を走った元長距離ランナーで、母も100mHでインターハイを経験している選手だったが、源は陸上に興味がなく、むしろ嫌いだったという。「だってきついじゃないですか」。中学校では野球部に入り、ポジションはセンター。県大会出場が最高成績だった。丸刈りにしたくなかった源は、高校で野球を続けることを考えなかった。
地元の美祢青嶺高校に進学してからはまず、バレー部に興味を持ち、見学にも行った。中学時代に仲が良かった友達の母がママさんバレーをしていため、源も友達と一緒にバレーをする機会があり、面白そうだなと思ったことがきっかけだった。そんな源に父が「やってみんか?」と勧めたのが陸上だ。中学の時にはオフシーズンに結成される駅伝部に源も呼ばれ、美祢市の駅伝大会を走ることもあった。加えて美祢青嶺は父の母校で(当時は美祢工)、父の恩師である高見克人先生が監督として陸上部にいたこともあり、父は「もったいないぞ」と何度も伝えたという。「これも縁なのかな」と源は父の誘いのまま、陸上部に入部した。
「ただ速く走るだけじゃつまらない」
美祢青陵の陸上部は駅伝に特化していたが、県内には都大路常連校の西京高校があり、県内の力のある長距離選手の多くは西京に進む。そのため源は都大路というよりも、県駅伝で上位になることを目指し、競技に向かっていた。ただ、元々走ることが好きではなかった源にとっては毎日が試練で、強豪・大牟田高校(福岡)との合宿では心が折れた。「最初の合宿が大牟田合宿だったんですけど、初日の10kmで走れなくて怒られ、ご飯も食べられなくて、初心者なのになんで全国レベルのチームと合宿をしないといけなんだ……って思ってしまいました」
高校時代、結局最後まで合宿の全メニューをこなすことはできなかったが、その中でも源が意識していたことがある。「自分にプラスになることは必ずある。何かを収穫するというのを目的にして合宿に参加していました。速い人は何を意識しているのか。走りだけでなくミーティングなども通じて、少しでも吸収しようと考えていました」
人から学ぶという意識は合宿だけにとどまらない。源は「速く走れるようになりたい」と思う一方で、「ただ速く走るだけじゃつまらない」という気持ちもあり、きれいなランニングフォームで速く強い選手に憧れていた。その意識から大迫傑さんの走りを見るようになり、身近な選手としては西京出身の中村駆さん(東洋大~トーエネック~引退)の走りを参考にしていたという。練習を積み重ね、3年生の時には県駅伝で7区区間賞、中国駅伝で7区区間2位と結果を残している。
高校3年間は駅伝に向けた練習がメインだったが、源は「1枠空いていた」という理由から1年生の春に800mに出場し、記録が伸び始めた高3の時には西村章先生に中距離のメニューを作ってもらうこともあった。そして初めての全国大会となるインターハイに出場。1分56秒29で予選敗退となり、「本気で狙っている人たちの覇気を感じて、そんな人たちがいることを知れたのはいい経験でした」と振り返る。その経験は同年の国体で生き、1分52秒58の自己ベストで6位入賞を果たした。
中距離を強化していた環太平洋大へ
源は当初、高校卒業後は就職しようと考えていたが、全国の舞台を経験する中でもっと強くなりたいという思いが強くなった。そんな源に対して熱心に勧誘してくれたのが環太平洋大の吉岡利貢コーチだった。
吉岡コーチは2012年に環太平洋大のコーチになり、まずは駅伝の強化に取り組んだ。しかし大学陸上界における箱根駅伝の存在があまりに大きく、選手たちに「関東に行けなかった」という意識があることが気になっていた。そんな中、就任1年目に監物稔浩(現・NTT西日本)が日本選手権1500mで8位入賞を果たしたのを皮切りに、中距離で日本インカレなどの全国大会に出場する選手が続いた。「地方の大学として何か色を出していかないといけないと思っていたところで選手たちが活躍し、中距離だったら全国で戦えるのではないかと思い始めた頃でした」と吉岡コーチは振り返る。
勧誘の際、吉岡コーチは「実績はまだないけど動きがいい」「あまり練習を積めていなくてもそこそこのタイムを出している」などを意識しながら選手ののびしろを見極め、きれいなフォームで走る源に目がとまった。ただ源は様々な可能性を考えて進学を2度断ったが、最後は吉岡コーチが掲げるビジョンと低酸素トレーニングができる環境制御室の新設も踏まえ、「新しい発見ができそうだな」という思いから環太平洋大への進学を決めた。
半年以上続いたけがの後にコロナ禍
入学してすぐに源が掲げた目標は「4年生で1分46秒」だったが、当の本人は「そんなことを言っていたらしいです」とおぼろげな記憶のようだ。ただ先輩が言っていた「どうせやるなら日本一」という言葉が胸に響き、源も自然と日本一を目指すようになったという。
それまで本格的な中距離の練習をしたことがなかったため、300mというメニューは初めてのものだった。「いや~もう、全く練習が違って……。足のダメージもすごいし、精神的にもすごいし、一番きつい練習だと思いました」。高校時代は長距離を走るのに苦しんだが、いざやってみたら中距離も苦しい。「結局、陸上は全部きついんだなと思いました」と苦笑い。吉岡コーチが作るメニューをこなしながら、少しずつ基礎体力とスピードを養っていった。
源は2年目の春に1分50秒0台を連発し、6月にあった学生個人選手権で初のタイトルをつかんだ。目指していた日本一ではあったが、1分52秒87というタイムにもレース展開にも満足できず、その思いも9月の日本インカレにぶつけようとした。しかし夏にけがをしてしまい、初の日本インカレは準決勝敗退で終わった。
けがが完治したのは昨年の春。3年目のシーズンこそはと思っていたところに新型コロナウイルスが猛威を振るい、様々な大会が延期・中止となってしまった。だが強制的に試合に出られなくなったからこそ、焦らず練習を積めたのかもしれないと吉岡コーチは振り返る。その年の日本インカレは1分49秒64の自己ベストで6位だった。
急成長を促した3つの変化
前述の通り源はその後、自己ベストを更新し続けて日本記録保持者となったが、そこまでの成長を遂げた要因はなんだったのか。源は悩みながら2つのことをあげた。
1つは朝練だ。環太平洋大は各自の裁量に任せた朝練を設けており、選手は距離もスピードも自分で考えて練習に取り組んでいる。源は3年生のシーズンまでは走っても6kmまでだったが、3年生の冬季シーズンから距離を伸ばし、日によっては16kmも走ることもある。中距離選手としては異例の距離と言えるだろうが、「中距離はこういう練習をしなさいというのは僕は嫌いなんで、距離を踏まないと走れないという感覚があったから走りました」と源。実際、300mの練習も楽に走れるようになり、タイムも上がった。
もう1つは最上級生、主将としての覚悟だ。ラストイヤーを迎えるにあたり、源は先輩から主将の打診を受けた。チームは部員300人規模の大所帯。それまで源はこれほどの規模で主将を務めた経験はなく、人前で話すのが苦手な性格ゆえに断るだろうと吉岡コーチは思っていたという。しかし主将になった今、「キャプテンなんだからもうちょっと頑張ろうって自分の中で決めました。自分には300人くらいいる部のキャプテンとしての責任があります」と源は言う。以前であれば朝練に顔を出さないこともあったようだが、主将になってからは気持ちを入れ替えて取り組んでいる。
加えて、吉岡コーチから見ての変化もある。「私の中では去年までの3年間は私が作ったメニューを粛々とこなすという感じでしたが、今年の初っぱなに記録を出した頃から、自分で練習メニューを考えられるようになりました。彼が言ってくることはこっちが提案したいことだったり、こっちから提案したことへの反応も良かったり。彼の中では言われたことをしていると思っているかもしれませんが、こちらとしてはかなり成熟してきたなと感じています」。それまでの3年間で積み重ねてきた技術と知識、感覚が全てかみ合ったことが、急成長の鍵になっているのだろう。今は800mで記録を伸ばしているが、1500mでも記録が出そうな感覚があるという。「記録次第では、1500mにシフトするのもありかもしれません」と源自身も1500mのレースも楽しみにしている。
今の目標は来年7月に予定されている世界選手権(オレゴン)に向け、参加標準記録(1分45秒20)を突破すること。その先には3年後のパリオリンピックを見据えている。「世界最高峰の舞台がどんなものか経験してみたいですし、世界でどれだけ自分が戦えるか確かめたいです」。東京オリンピックでは選手たちが楽しそうに走っている姿が目に焼き付いている。
「日本のレースはバチバチというか、駆け引きの部分が強いというか……。何のために走っているのか、だと思うんです。結果も大事だけど楽しく走りたい。その方がストレスフリーで長く競技を続けられるんじゃないかな」
走ることが好きではなかった源だからこそ、「楽しい」を追求する意義を誰よりも強く感じている。