陸上・駅伝

東洋大・鈴木碧斗 急成長した才能、世界の舞台を経てさらに大きな飛躍を

東京オリンピックのマイルリレーに出場し、日本インカレ100mも制した鈴木。今季の躍進はめざましい(撮影・藤井みさ)

高校時代までは全国的に無名で、東洋大学に入ってからも「世界」など夢の舞台だった。そんな鈴木碧斗(2年、大宮北)がこの夏、男子4×400mリレーのアンカーとして東京オリンピックに出場。決勝進出こそならなかったものの、25年ぶりとなる日本タイ記録(3分00秒76)をマークした。どのような歩みを経て日本代表選手に成長を遂げたのか。オリンピックはどんな舞台で、その経験を今後どう生かしていきたいか。自身のこれまでとこれからを語ってもらった。

「自分の専門は200m」

9月18日に行われた日本インカレ男子100m決勝で、鈴木は0秒04差の中に4人が飛び込む大接戦を制した。電光掲示板で結果を確認し、うずくまって涙を流したのは、うれしかったことだけが理由ではない。優勝を狙っていた約1時間前の4×100mリレーで5位に終わった無念の思いもこみ上げてきたからだ。「悔しかった。100mで取り返す」と雪辱を誓ったレースでもあった。

自らが優勝したと確認した瞬間、思わずうずくまり涙をぬぐうような仕草もあった(撮影・藤井みさ)

改めて振り返ると、東京オリンピックも悔しさの方が大きかった。日本代表に選ばれたことは嬉しかったし、レベルの高いマイルリレーのチームメートと本番を目指していく日々も充実していた。しかし、8月6日の本番。4×400mリレー予選で、鈴木は「スピードが僕の取り柄なので、最初の200mでスピードに乗っていこう」と考えていたが、4位でバトンを受けると、200m付近で2人に抜かれてしまう。後半は最後の直線で1つ順位を上げるのが精いっぱいだった。

「決勝に行けなかったことが一番悔しいです。日本記録に並んだタイムも悪くはなかったですが、25年経って進化していないとも言えます。日本新記録を狙っていたので悔しかった」

世界最高峰の舞台で貴重な経験を積んだ鈴木だったが、ゆっくり休養を取ることもなく、その翌週には東京選手権に出場。エントリーしたのは100mで、雨中のレースを10秒41(+0.7)のセカンドベストで制した。4×400mリレーのオリンピック日本代表が100mに出場したことを意外に思う人も多かった。しかし、鈴木には明確な狙いがあった。

大舞台に出場するも、悔しさのほうが勝った(撮影・長島一浩)

「自分は200mが専門なので、400mはオリンピックで一旦ひと区切りつけました。200mのスピード向上を図るためと、オリンピックで走った時に400mのスピードも外国人選手と比べるとまだ足りないと思ったので、今大会に向けては100mに取り組んできました」

その成果はタイムに表れた。予選で10秒39(+0.7)とそれまでの自己記録(10秒40)を0秒01上回ると、準決勝で10秒34(+1.6)、決勝で10秒33(-0.2)と、走るたびに自己記録を更新。大会前に掲げた「10秒2台を出す」という目標には届かなかったものの、確かな手応えをつかんだ日本インカレとなった。

高校3年秋に本格参戦した400mで飛躍

小学1年で始めたサッカーは脚の速さが武器だった。4年生からは地元の陸上クラブにも通い始め、走り高跳びをメインに活動した。陸上だけに取り組むようになったのは、埼玉・宮原中で陸上部に入ってからだ。中学は走り幅跳びが専門だったが、最高成績は3年の県大会出場で、決勝に進むことはできなかった。

大宮北高でも陸上を続けたが、取り立てて高い志があったわけではない。「中学で陸上部だったから高校でも陸上しかないかな、くらいの気持ちでした。全国大会に出られるとは全く思っていなかったですし、楽しくできればいいかなと思って陸上部に入りました」

ただ、2年から3年にかけて身体が成長するとともに、記録がぐんぐん伸びた。1年の秋に6m29だった自己記録は、3年の春に7m21に。走り幅跳びと並行して取り組んでいた短距離でも、1年秋に11秒63だった100mの自己記録は、3年の春に10秒63と、1年半あまりで実に1秒も縮めた。「自分の中で陸上が面白くなって、3年生のシーズンはインターハイ出場を目指すようになった」のは、ごく自然な流れだった。そして鈴木は、100mと走り幅跳び、さらに4×400mリレーの3種目でインターハイ出場という目標を果たした。

しかし、鈴木の競技人生はこの後、新たな展開に突入していく。顧問の大塚寿先生の進言もあって、インターハイ前の7月に出場した400mで47秒46をマーク。その記録を持って臨んだ10月のU20日本選手権400mで3位に食い込んだのだ。しかも準決勝では47秒27と、2019年の高校ランキングで9位に入る好タイムを叩き出している。

「やっていて楽しかったのは100mでした。でも、400mは始めて何本も走っていない中で、U20で結果を出せたり、マイルリレーを走っても400mを専門にしている選手と戦えた。どの種目が自分に向いているかと言えば、400mなのかもしれないと少しずつ思うようになりました」

底知れぬ潜在能力がまだまだ秘めている可能性を残しながら、鈴木は濃密な高校生活を終えたのだった。

ターニングポイントは世界リレー

2020年春、東洋大学に進学した。その理由として、自宅から通えるという点もあったが、それ以上に「高校ではエースのようなポジションでしたが、せっかくやるなら自分が底辺のところから始めた方がより頑張れる気がしたからです。練習会に参加させていただいて、一番強いと思った東洋大学に進もうと。レベルの高いところで、いろいろと学びたかった」と鈴木は明かす。「楽しくできれば」と考えてスタートした高校時代とは、意気込みがだいぶ変化したことが伺える。

日本インカレ男子100m決勝、鈴木(左)と2位の城西大・鈴木(右)のタイム差はわずかに0.01秒だった(撮影・藤井みさ)

大学では、梶原道明監督から「100mにも400mにも対応できるように、200mのタイムを上げていこう」と言われ、それまで一度も走ったことがなかった200mを強化していくことにした。関東インカレや日本インカレで活躍したい、ましてやオリンピックに出場したいといった明確な目標はなかったという。入学して夏まではコロナ禍で練習もままならなかったが、「コロナが落ち着いてから頑張ればいい。それほどメンタル的にきつくはなかった」と振り返る。

9月に200mで20秒18(+1.1)をマークし、日本インカレでは4×400mリレーの1走に抜擢され、銅メダルを獲得した。10月に右脚ハムストリングの肉離れで、関東インカレやU20日本選手権は棄権したが、怪我が治ってからの冬季は、今年3月のシレジア(ポーランド)世界リレー選手権日本代表選考トライアル300mをターゲットに、「スピードアップをテーマに」強化に励んだ。

トライアルでは「絶対に日本代表になるんだ」という強い思いはなく、「良いタイムを出せれば」という程度だった。にもかかわらず、ここで好結果を残した鈴木は、自身の思いとは裏腹に5月の世界リレー日本代表の補欠に選ばれる。しかも鈴木の幸運ぶりは、ここからさらに発揮された。

東洋大OBで、日本のエースでもあるウォルシュ・ジュリアン(富士通)が故障により離脱したことで、遠征メンバーに繰り上がり、現地入りすると、板鼻航平(Accel)が体調不良になったことから、混合4×400mリレーのアンカーを任された。このレースで好走した鈴木は、予選には出場しなかった4×400mリレーの決勝メンバーに抜擢され、アンカーとして力強い走りで、銀メダル獲得に大きく貢献したのだ。

「自分のターニングポイントは、世界リレーでした。ジャパンのユニホームを背負って出られただけでも自信がつきましたし、その中でしっかり結果を残せたことも良かった。大学2年生のシーズンは本当に良いことだらけで、オリンピックも大きな出来事でしたが、ここまで成長できたのは世界リレーがあったからだと思います」

来年の世界陸上を目標に、鈴木はさらなるレベルアップを誓う(撮影・長島一浩)

つかんだ自信を力に変えた鈴木は、3週間後の関東インカレ200mで優勝し、翌6月の日本選手権400mで3位に食い込み、オリンピック日本代表の座を手中に収める。コロナ禍で開催に尽力した関係者に感謝の念を抱きつつ、オリンピックというこれ以上ない舞台で自身の現在地を確認した鈴木は、次にどんな目標を見据えているのか。

「来年は世界選手権(米国・ユージン)があるので、今度は個人種目の200mで狙っていきたい。タイム的には自己記録が20秒71ですが、20秒2台を出さないと行けないと思っています」

東京オリンピックが2020年に予定通りに開催されていたら、鈴木の名が世に知られるのはもっと後になっていただろう。とてつもないスピードで進化する肉体や自身の走りを、本来はそれを司るはずの思考や精神が必死に追いかけているようにさえ映る。今季、大きく飛躍した鈴木のこれからにますます注目せざるを得ない。

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