陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2022

東京国際大・野澤巧理、ラストランの箱根駅伝で満点の快走 苦しんできた自分だから

ラストレースとなった箱根駅伝、野澤は走れなかった4年生の思いも胸に挑んだ(撮影・北川直樹)

今年の箱根駅伝で過去最高順位タイとなる5位に食い込んだ東京国際大学。10区で区間3位と好走し、フィニッシュテープを切ったのが、出場10人中唯一の4年生である野澤巧理(たくみ、白鷗大足利)だった。一般入試で入部し、ゆっくりと、しかし着実に力をつけながら、最終学年となった今年度に主要大会で結果を残してきた。4年間を駆け抜ける原動力となったのは、積み上げた弛(たゆ)まぬ努力と、同期への思い、そして、自らを信じ抜く心だった。

最後の箱根駅伝は三浦瞭太郎主将の分も

今年の第98回箱根駅伝は、野澤にとって最初で最後の挑戦であるとともに、中学から本格的に取り組んできた陸上競技のラストランでもあった。競技生活は大学限りでピリオドを打つ。

「最初は好きで走っていましたが、楽しく走るのと、強くなるために走るのは全然違うと感じるようになりました。毎日が本当にきつくて、早く解放されたいと思っていました」

もともと学生駅伝に特別な思い入れはなかったが、「引退レースにするなら箱根駅伝くらいの大舞台がいい。ラストランに“ふさわしい以上”の舞台だな」とは考えていた。

最終学年となった今年度、ついに箱根駅伝を走るチャンスがやって来た。補欠登録だったが、当初の予定通り、当日変更で主将の三浦瞭太郎(4年、東農大二)に代わって10区に入った。出場メンバー唯一の4年生だった野澤は、「他の4年生の分まで」という思いが強かったという。

「昨年6月の全日本大学駅伝選考会の時、瞭太郎から『レース前に結果は決まっているんだから、緊張しても仕方ない。あとは頑張るだけだ』と言われた言葉がずっと心に残っていました。自分だったら交替させられると分かったら、やる気がなくなってしまう。でも、瞭太郎は走る可能性があるなら、と最後の最後まで努力していて、本当にすごいなと思いました。交替するのは気が引けたけれど、だったら瞭太郎の分まで結果を残すしかないと覚悟を決めました」

大会の数日前、エントリーメンバー16人が集められたミーティングで、野澤は「区間3番以内になります」と言い切った。実際、「悔いだけは残したくない」と、他大学との競り合いで果敢に集団を引っ張る場面も作り、6位で受け取った襷(たすき)を5位で大手町に運んだ。

「自分の役割を果たせて、安心しました。今まではレース後、何点だった?と聞かれても、それ以上がない100点はつけたくなかったのですが、今回は全て出し切れて、100点と言えるような走りができました」

タイムは大学別記録を1分25秒も更新する1時間9分06秒。有言実行の区間3位だった。

ひたすらに泥臭く自身を磨いた3年間

中学の部活動で陸上を始めた野澤は、最初は短距離だったが、1年目の秋の駅伝大会で駆り出されてからは長距離がメインになっていった。その後、白鷗大足利高校(栃木)に進み、インターハイや全国高校駅伝(都大路)を目指したものの、全国の舞台は遠かった。

大学でも競技を続けるかどうかはかなり悩み、「一度は両親や担任の先生にやめる意向を伝えた」という。高3の12月頃、「やっぱり駅伝をもう一度走りたい」と思い始めた時期には、各校の推薦の期間は終わっていた。もはや一般入試で入るしかなく、東京国際大に進んだのは、「いくつか受験した中で、ここしか受からなかった」から。それも今となっては大志田秀次監督から冗談っぽくいじられるような笑い話だ。

野澤が入学した当初の東京国際大は、箱根駅伝の本戦出場は2回で、予選会突破が目標というチームだった。それでも先輩たちのレベルは高く、「箱根で走りたいという目標は持てなかった」と振り返る。「自分はやっていけるだろうか」という不安が大きく、その不安を吹き払うために練習に打ち込んだ。

ただ、「やればできる」と信じている自分もいた。実力の面から1年目は寮に入れず、アパートでの一人暮らし。就寝時間などはいくらでもごまかせたが、「それでは強くなれない」と自身を厳しく律しながら、「まずは寮に入る。Aチームに入る」ことを目指した。競技面でも1年目はスピードを磨き、2年目から長い距離を意識するなど、試行錯誤を重ねた結果、2年目の秋に10000mで29分台に突入。有力な後輩たちの加入もあり、主要大会に出場する機会こそなかったものの、野澤は自身の成長に手応えを感じていた。

野澤(右)は段階を踏んで少しずつ成長していった(写真は昨年の全日本大学駅伝、撮影・佐伯航平)

3年生になる時期から始まったコロナ禍では、1人で練習しなければならない状況を決してマイナスとは捉えなかった。

「他の人と一緒だとどうしても合わせてしまうけれど、1人なら追い込める。松村拓希コーチから『自分で考えて取り組むように』と言われて、遅筋を鍛え、心拍数は最大値を目指してみようと。1日2時間40分くらい、40km前後ひたすら走ることを4月から1カ月、ほぼ毎日続けました。自分の体の限界を知れたことが良かったです」

そうした成果もあってか、箱根メンバーを決めるチーム内の選考レースで、野澤は10番以内でゴールした。しかしその後、コーチらとの何気ない会話で「まだ自信がない」と吐露し、数日後に発表された登録メンバー16人の中に野澤の名前は入らなかった。

最後のシーズンで大きく飛躍し、チームの主力に

4年生のシーズン開幕にあたり、「5000mで13分台、10000mで28分台を出す」と目標に掲げた。学生3大駅伝を「絶対に走りたい」ではなく、「なるようになる。自分ができることをやるだけ」と、いい意味で力まずに考えていたあたりは野澤らしい。

「自分ができることをやるだけ」と野澤(右)は考え、ラストイヤーを迎えた(写真は今年の箱根駅伝、右が野澤、撮影・森田博志)

いずれにしても地道な練習の継続は、着実に野澤の力になっていた。5月の関東インカレ2部ではハーフマラソンに出場し、1時間03分50秒(19位)をマーク。留学生以外では、チームで初めてハーフマラソンで20位以内に入った。6月の全日本大学駅伝選考会(10000m)は29分26秒26の自己ベストで、チームのトップ通過に貢献している。なかでも関東インカレは、「ハーフの距離なら戦える」と確信できた点で大きかった。スタッフ陣からは常に「これで満足するなよ」と言われていたが、それは期待の裏返しだったはず。主要大会で結果を残し始めた野澤に対する信頼は、一気に増していった。

苦手な上り坂ダッシュ以外は、ほぼパーフェクトにこなした夏合宿を経て以降は、5000mで記録を出すために「ジョッグも流しも全てスピードを上げて、筋トレにも取り組んだ」。その結果、9月に14分07秒89、10月には13分57秒17まで自己記録を伸ばし、ついに13分台に突入した。野澤は「4年間で一番楽しかった思い出は、その13分台を出した時です」と胸を張る。

学生駅伝デビューとなった11月の全日本大学駅伝では、2番目に長い17.6kmの7区を任された。トップに立った6区の丹所健(3年、湘南工大附)から襷を受け、13km半ばまで首位を守った。「スタートしてからいつ抜かされるのか怖かった。きついし、駅伝を楽しいとも思えませんでした」と笑うが、順位を2つ落としながらも区間6位でまとめた。そうした野澤の真骨頂とも言える粘り強さが評価され、2カ月後の箱根駅伝の活躍へとつながっていく。

持てる力を振り絞り、ラストランとなった箱根駅伝で100点満点の走りを見せた(撮影・藤井みさ)

陸上で得たものを今後の舞台でも

改めて4年間を振り返った時、「入学した頃は26人いた同期が、次々とやめていってしまったこと」が一番に頭に浮かぶという。寂しかったが、野澤は「自分はここでやめたら悔いが残る。やれるだけやろう」と心に誓い、競技に向き合った。

春からは新社会人として、陸上とは全く関係のない日々が始まる。例えば市民ランナーとして楽しく走っていくつもりも今はないという。ただ、大学4年間、あるいは10年間やってきた競技の経験は新たな舞台でも生かせると考えている。

「ずっと苦しい思いをしてきたので、これ以上苦しいことはないと思います。絶対に諦めないという気持ちも無駄にはならないはずです」

4年間でその活躍が多くの人の目に触れたのは、最後のシーズンだけだったかもしれない。しかし、人が見ていようといまいと、野澤は自ら信じる道を突き進み、やり遂げた。

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