アイスホッケー

クレインズ西脇雅仁が地元で引退、早稲田大での経験を胸にこれからもホッケー界の力に

3月13日の試合前、スタンドにいる関係者に向けてスティックを掲げた西脇。最後まで明るく、「地元が生んだスタープレーヤー」の座を全うした

アイスホッケー「アジアリーグ」のレギュラーリーグ最終戦が3月13日、北海道・釧路で行われ、この試合を最後に1人のウイングプレーヤーがユニホームを脱いだ。地元・釧路緑ケ岡高校(現・武修館)から早稲田大学に進み、日本製紙クレインズ・ひがし北海道クレインズで今季まで計17年間(計17シーズン)、得点源として活躍した西脇雅仁(39)だ。

無観客での引退試合、最後まで笑顔でプレー

3月13日の横浜グリッツ戦は、無観客開催。釧路北中時代からアイスホッケーの街・釧路が生んだ大型センターとして注目を浴び、日本代表でもプレーしてきた西脇にとって、最後の舞台が無観客というのはいかにも寂しく不釣り合いだったが、これまでそうだったように、最後まで笑顔でプレーした。「本来ならたくさんの人に来ていただいて、プレーしている姿を見ていただきたかったですけど……。今はやりきったという気持ちです。悔いはないですし、もうちょっと現役を続けたいという気も正直、ありません」。リンクを去る時に口にした言葉もすがすがしかった。

昨シーズン、西脇は足のけがで1試合も出場機会がなかった。戦列に復帰した今季、点の取り合いとなった昨年12月の全日本選手権で、決勝の6点目を挙げる活躍でベストFWを受賞。さかのぼると、2006-2007年のプレーオフ・ファイナル最終戦では延長Vゴールを含む4得点を挙げるなど、クレインズの点取り屋として名を馳(は)せた。更に今季はクラブの営業部長として、母体企業を持たないクレインズのためにスポンサー集めに奔走した。

引退試合は無得点。「ラストゴールを」と周りの選手からさかんにパスが送られたが、ネットを揺らすことはなかった

小原大輔と出会い、センターからウイングに転向

釧路緑ケ岡高までは将来の日本代表のセンターとして嘱望されていた西脇が、ウイングとして「点を獲(と)る」ことに目覚めたのは、早稲田大進学がきっかけだった。クレインズでも「相棒」を務めた1学年上の小原大輔。高校は釧路緑ケ岡の西脇に対し、小原は駒大苫小牧高と違っていたが、ジュニア代表(現U18代表)で同じセンターとして目標にしていた小原が早稲田大に進んだことから、当初の志望校・明治大学から方向転換したのだ。

早稲田大に入ると西脇はウイングにコンバートされ、センターの小原と同じセットを組んだ。「小原さんは僕のホッケースタイル、ホッケー人生を180度変えた人です。僕は小さい頃からずっとセンターで、パスを出すことに楽しみを感じていたんですが、小原さんは僕以上のプレーができるセンターでした」と西脇は言う。

「小原さんを見ていると、こういう周りの生かし方があるんだって、驚くことばっかりでした。僕の力を120%引き出してくれたし、小原さんと組んだことで、自分の中のセンターへのこだわりがなくなったんです」

昨年12月の全日本選手権で優勝、ベスト6の中の「ベストFW」に選ばれた。移籍により、現役の最後に小原(中央)とコンビを組んだのも何かの縁か(右が西脇)

それまでずっと人を生かすことを考えてきた西脇が、初めて出会った「自分を生かしてくれる」選手。以降、西脇は現役を引退するまでずっとウイングプレーヤーで通した。

同期の田中浩康と励まし合いながらの文武両道

釧路緑ケ岡高ではスポーツ科で、部活動が学校生活の中心だった西脇。早稲田大では社会科学部に在籍した。「ホッケー部は文武両道を掲げていたので、勉強の方も大変でした。1年生の時は、正直、卒業できるのかなって思ってましたから」と振り返る。「特に語学の単位が不安で……。隣の席が野球部の田中浩康(のちヤクルト、現DeNAコーチ)だったんですが、彼と4年間、いつも励まし合いながら、頑張って卒業した感じですね」

元早大野球部主将、田中浩康のセカンドライフ

アイスホッケーと野球。競技は違うが、当時から西脇も田中も才能を評価される選手だった。「ホッケー部と野球部って、寮が同じ東伏見で近いんです。田中とは一緒にご飯を食べにいったり、どこかに出かけたり、ホッケーの試合がない時は必ず神宮球場に行って応援してました。田中も、ホッケー部の追い出しゲームに来てくれたり。スティックを持って一緒にホッケーをやった仲なんです」。今でも連絡を取り合い、一緒に食事に行くという。

早稲田大進学以降はウイング一筋。クレインズを優勝に導くゴールを決めてきた

早稲田大を卒業後は、先輩の小原が当時在籍していたコクド入りを考えていた西脇。それでも最終的には、子どもの頃から見てきたチームで、お世話になった人の前でプレーしたいと釧路のクレインズ入団を決めた。以来17年間、故郷でプレーしたが、だからこそ東京で過ごした4年間が自分の中では大きかったという。

「釧路はアイスホッケーが盛んで、その分、どうしたって人脈が限られてくるんです。でも、大学ではホッケー部以外の人や、違う大学の人と知り合うことができる。段々、自分の世界が広がっていくんです。東京だと、アイスホッケーってどんなスポーツなのって、そこから会話が始まるんですよ。そこで時間をかけて話をして、その人との付き合いが始まっていく。今季はプレー以外に営業活動をしましたが、東京の大学で過ごした経験が今の自分に生きてるなって感じました」

引退試合後は、相手の横浜グリッツの選手と記念撮影。今季限りでの引退を宣言してからは、ビジターの試合の度に相手チームから花束とセレモニーが用意された(前列中央が西脇)

子どもたちが整った環境でホッケーができるように

西脇はこの3月でクレインズを退き、4月からはスポーツトレーナーをする傍ら、釧路のアイスホッケーを裏方として支えていこうと考えている。「釧路もホッケーをする子が少なくなっていて、トップリーグも、僕が大学を卒業する頃と比べれば待遇が全然、違います。僕は恵まれた時代にホッケーをやらせてもらってきて、でも、だからこそ今の子どもたちにも、少しでも整った環境でホッケーをしてほしい。引退後は、そのための活動をしていくつもりです」

西脇の甥・颯さんはこの4月、武修館高から明治大に進む。「アイスホッケーを取り巻く環境は大きく変わりましたが、大学生だからできることっていうのは、当時も今も変わっていないと思うんです。大学の4年間でいろんな人と出会って自分の世界を広げてほしいですし、何事にもチャレンジして、いろんな世界を見てほしいと思います。僕自身、大学に行ったことでモノの見方が変わったと思いますから」。4年後、颯さんが大学を卒業する時に、ちゃんと釧路にクレインズがあって、そこで自分の背番号「11」を継いでもらいたいという願いが西脇にはある。

ビジターゲームで各地のファンに引退の挨拶をした後、地元ラストゲームが無観客に。それでも暗くなることなく無人のスタンドに手を振り、チームメートの爆笑の中でリンクを去った

3月13日の引退試合後、西脇はスポンサー企業へのお礼回りをして、それから1週間、古傷の足を手術するために入院した。「退院したら、すぐに大阪に飛びます。西日本地区の小中学生の大会があって、僕は熊本のチームのコーチとしてベンチに入るんです」。早稲田大時代、東海大の選手と仲よくなり、その人の故郷・熊本の子どもたちを毎年夏、釧路に招いて指導してきたという。「彼の紹介で、熊本の企業が僕の個人スポンサーになってくれたんです。本当に、ありがたいことです」

脈々と続く、人との「縁」。それもまた、西脇が大学4年間で得た財産に違いなかった。

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