父の背中で医者を志し代表合宿でホッケーに魅了され 旭医大医学部・矢野竜一朗(上)
今回の連載「いけ!! 理系アスリート」は、旭川医科大学医学部でアイスホッケー部に所属する矢野竜一朗(りょういちろう、1年、苫小牧東)です。U18日本代表を経験し、2浪の末に昨年から旭川医大でプレーしています。2回連載の前編はアイスホッケーとの出会い、北海道の伝統校・苫小牧東高校に進学するまでです。
兄を追って3歳でアイスホッケー
1月下旬、本年度の国体として唯一開催されたスケート・アイスホッケー競技会(愛知)。アイスホッケー成年の部で話題を呼んだのが、大阪の決勝進出、千葉の銅メダル、そして福岡の5位入賞だった。大阪、千葉のメンバーの多くが、北海道をはじめとするホッケーが盛んな地域の出身だったのに対し、福岡の選手は大半が県内の出身。中でもポイントゲッターとして光ったのが、矢野だった。
矢野は身長182cmと体格に恵まれ、それでいてスピードと敏捷(びんしょう)性を備えている。サイズがあって動けるセンターフォワードは、日本のアイスホッケー全体を見回しても、そう多くない。矢野の3歳上の兄・倫太朗(中央大卒)は現在、トップリーグの横浜グリッツでFWとしてプレーしているが、兄が粘り強くパックをキープしてチャンスを広げる職人タイプなのに対し、矢野は単独で局面を打開し、そのままゴールを決めてしまう力を持っている。その日が初めてのホッケー観戦という人でも、ひと目で「うまい」と分かるプレーヤーだ。
矢野には兄2人、弟、妹がいて、矢野を含む5人全員がスティックを握っている。父・和浩さんにはプレー経験がないものの、長男のFW健志朗(関西大卒)がアイスホッケーを始めると、次男以下も導かれるようにリンクに通うようになったのだ。矢野家の三男にあたる竜一朗も、「3歳のころ、気づいた時にはホッケーを始めていました」と言う。
小学生時代に北海道チームの強さを見せつけられ
小学生時代は地元・福岡のクラブチーム・香椎ヒリューズでプレーした。「将来はホッケー選手になりたい」。そう考えていたが、6年生の時、それを上回る夢が芽生えた。「父を間近で見ていて、医者ってカッコいい、自分もなりたいと思ったんです」。中学に進むと、やはりクラブチームの福岡ゴールデンジェットで練習を続け、「中学では勉強を頑張って、福岡で一番の高校に進んで医大を目指そう」と思うようになった。
ホッケー選手から医者へと夢が変わった背景には、この競技特有の「地域差」があった。矢野は6年生の全国大会で、ホッケーが盛んな北海道・釧路の選抜チームと対戦し、2-20で大敗している。「北海道のチームと対戦したのはその時が初めて。もう、レベルがはっきり違いました。同じ小学生なのに別世界の人のように感じて、『完封されなくてよかった』『得点まで決めたんだからいい記念になったよね』ってみんなで話してました」
矢野の2人の兄は、いずれも中学を出て福岡県外の高校にホッケー留学した。特に、前述の次兄・倫太朗は、北海道の伝統校・苫小牧東高校に進んで中心選手として活躍していた。しかし、それでも矢野の気持ちは「医者になるために中学校、高校では勉強を頑張る」ことで固まっていた。「実際、中学ではよく勉強していたと思います。学校の成績もよかった」という。
「U16エリートキャンプ」でトップレベルを経験
そんな矢野の決心が、ある出来事によって揺らぎ始める。日本アイスホッケー連盟が主宰する、中学校3年以下の選手を対象にした「U16エリートキャンプ」のメンバーに選ばれたのだ。そこには、かつて福岡を大差で下した釧路の選手をはじめ、ホッケーの盛んな地域から有望株が集まっていた。ナショナルチームのスタッフの下、矢野は生まれて初めて「国内トップレベルのホッケー」を経験する。
「それまで自分がやってきたホッケーとは、全然違っていました。そうか、これがホッケーなんだと」。自分のプレーが周りを生かし、周りも自分の力を引き出してくれる。キャンプを終えて福岡に戻ってからも、その衝撃が矢野の中で消えることはなかった。「ホッケーって、上に行けば行くほど、うまくなればなるほど、面白くなるものなんだな」。兄が北海道で楽しそうにプレーしている理由が、そこで初めて分かった。
エリートキャンプに来ていた選手たちと同じ北海道の高校で、思い切りホッケーをやってみたい。その気持ちは日を追うごとに矢野の中で大きくなっていった。それでも、それをなかなか両親に打ち明けられることはできなかった。「医者になりたいと僕が言った時、父は何も言わなかったんですが、母に聞くと『すごくうれしそうにしてたよ』と」。父の和浩さんは、開業医という道をあえて選ばなかった。医者が家業になれば、子どもの将来の選択肢が狭まると考えたからだ。「父は昔から、自分のやりたいことをやらせてくれる人。医者になれと言われたことは一度もありません。それでも医者になりたいと思ったのは、父を喜ばせたい、親孝行したいという気持ちがあったから」と矢野は言う。
「迷った時は難しい方の道を行け」
高校受験を2カ月後に控えた11月下旬。先生との話し合いで進路を最終決定する日がやってきた。矢野はその前日まで、「北海道の高校に行きたい」と両親に伝えることができずにいた。「結局、最後まで言えなくて、父に手紙を書きました。翌朝になって『おまえが本当に行きたい道を行きなさい』と言ってもらったんです」。その時の和浩さんの言葉を、矢野は今も覚えている。「勉強は高校を出てからもできるけど、高校ホッケーは高校の3年間しか経験できない。迷った時は難しい方の道を行け。その方が成長できるし、それを成し遂げた時に自信になるから」
年が明け、兄と同じ苫小牧東高校を受験して、合格。2015年4月、半年前までは考えてもいなかった形で、矢野は高校生活をスタートさせた。「苫小牧での高校3年間は、アイスホッケーをとことんやる。そこで完全燃焼して、自分の中でホッケーへの未練をなくして、浪人して医学部を目指す」。その思いを胸に、ひとりで北海道へと旅立ったのだった。