好条件でアジアリーグに誘われるも、「広がっていく世界」を選んだ 本野亮介(上)
今回の連載「4years.のつづき」は、アイスホッケーのトップリーグ「アジアリーグ」に今季から新しく加わった「横浜グリッツ」にて、試合運営のリーダーを任されている本野亮介さん(30)です。明治大時代にトップ選手として卒業後も期待されていましたが、ある思いから一般就職を選びました。2回連載の前編はアイスホッケーとの出会い、選手という将来を選択しなかった理由についてです。
30歳になって、再び裏方として戻ってきた
アジアリーグは日本、韓国、ロシア(サハリン)の3カ国間で争われる国際リーグ。今季は国をまたいでの試合開催ができないため、日本の5チームでジャパンカップを開催している。その日本で唯一、首都圏をホームにしているのが横浜グリッツだ。新型コロナウイルスの影響で、コーセー新横浜スケートセンターには500~600人しか観客を入れることができないが、グリッツはこれまでのホームゲーム4試合で、ほぼ定員に近い動員を記録している。
首都圏にチームができることを待ちわびていた旧来のファン。そして、グリッツができたことで新しくこの競技に足を踏み入れたファン。新横浜のリンクは選手と客席の距離が近く、プレーの迫力を存分に味わうことができるが、盛り上げのための重役を担っているのが本野亮介だ。2012-2013シーズンまで明治大の主力DFとして活躍し、2年生でユニバーシアードに出場。スピードと運動量に優れ、ダイナミックなプレーで関東リーグのファンを夢中にさせた。
しかし今、新横浜の氷の上に彼の姿はない。選手ではなく、試合運営のオペレーションチームのリーダーを務めているのだ。「グリッツでの僕の役割は、演出の仕込みです。ほかのスポーツと比べて、アイスホッケーは演出の面で遅れています。プレー以外の時間を、エンターテイメントとしていかにお客様に楽しんでいただくか。そこを考えていくのが、僕たちオペレーションチームの仕事です」と本野は話す。
本野は、今年でちょうど30歳。年齢的なものやけがで現役を退いたわけではなく、大学卒業と同時に、アイスホッケーの第一線から自ら身を引いた。20歳代、選手であればもっとも輝くはずの時期に氷から離れ、30歳になって再び裏方として戻ってきたのだ。
エリートコースを歩んできた学生時代
アイスホッケー選手としては細身で、イケメン。明治大を卒業する時には、アジアリーグのどのチームに行くのか、ファンの間でちょっとした話題になった。しかし本野は結局、アジアリーグには進まず、老舗の大手百貨店に就職。今年で8年目になる。
明治大でプレーしていた7年前、本野の元には当時4つあった日本のチームのうち、3チームが勧誘に訪れた。特に熱心だったチームは、親会社の正社員という条件だった。本野が首を縦に振っていれば、おそらく今もアジアリーグで活躍していただろうし、日本代表に呼ばれていた可能性もある。それでも本野の中で、「アジアリーグでプレーする選択肢は自分の中にはなかった」と振り返る。
本野は群馬・桐生の出身。いとこがホッケーをやっていたこともあり、6歳で地元のジュニアチームに加入した。群馬はスピードスケートが強く、アイスホッケーは後進県。本野は隣県の栃木・日光東中に進み、中学を出ると、さらに高いレベルを求めて北海道(清水高校)に渡った。大学は高校プレーヤーのトップどころが集まる明治大へ。アイスホッケーの世界で言うと、これはかなりのエリートコースになる。
しかしそれでいて本野は、日本の最高峰であるアジアリーグを就職先に選ばなかった。「中学から親元を離れてホッケーに打ち込んできたのに、どうして」「3チームも勧誘に来てくれて、行きたくても行けない人もいるのに何を考えてるんだ」。当時の本野の耳に、色々な方面から色々な声が聞こえてきた。両親を含め、周囲の人はほぼ全員が首をかしげた。それでも、本野の心は動かなかった。
どんどん狭まっていく世界と、広がっていく世界
本野が明治大でプレーしていたころの少し前から、日本では大学のトッププレーヤーが必ずしもアジアリーグに進まなくなっていた。2004年までの「日本リーグ」時代、企業のアイスホッケー部の年間予算は5~7億円。やがて日本リーグがアジアリーグとなり、社会的な注目度が低下したことで、以後はどこも予算を縮小、中には廃部を決める企業も出てきた。現在のアジアリーグのチームの活動費は、かつての予算の半分か、それ以下。母体企業の社員として採用するケースも減っている。そのため、大学まで活躍した選手が商社や金融関係に就職するケースも多い。
本野の元に舞い込んだアジアリーグからのオファーは、他の選手と比較しても、かなり恵まれたものだった。しかし、それでも本野の気持ちが変わることはなかった。
高校、大学と、常にトップチームでプレーしながら、いつしか本野の目には、日本のアイスホッケーが「狭い世界」に映るようになっていた。「アジアリーグは、僕にとって輝いて見える場所ではありませんでした」。トップリーグの選手を見て、「うまいな」「かっこいいな」とは思っても、ひとりの人間として「ああいう風になりたい」と本野が思ったことは一度としてなかったという。
「年齢が上がってくるにつれて、そういうことを強く思うようになりました。自分がアジアリーグに行くことを、現実としてイメージできなかったんです」。アイスホッケーに限らず、その競技のトップリーグに進めば、勝つこと、いい成績を上げることが生活の全てになる。競技の世界に身を置く時間が長くなればなるほど、社会の常識から遠ざかっていくように本野には思えた。
「どんどん狭まっていく世界と、広がっていく世界。大学を卒業して20年、30年、社会人として生きていくなら、広がっていく世界に身を置いた方が豊かな人生が送れるんじゃないかって思いました。誘っていただいたスカウトの方には、本当に申し訳なかったのですが」
大学を卒業するまで、夢中で追いかけたアイスホッケー。13年4月、学業を終えた本野は、東京の百貨店で仕事を始める。以前から興味があった、ファッションの世界へと飛び込んだのだ。