サッカー漬けからエンジニアへの変身、日本にい続けることへの危機感 酒井潤3
今回の連載「4years.のつづき」は、同志社大学時代にサッカー大学日本代表としてプレーし、今はシリコンバレーでエンジニアとして働く酒井潤さん(41)です。サッカーを極めた酒井さんがどのようにキャリアを積んでいったのかを、4回に分けて紹介します。3回目はエンジニアとしての一歩を踏み出したこと、そして新たな気づきについてです。
文系からエンジニアへの挑戦
サッカーをやめ、稼ぐ力をつけるためにITを学ぼうと決めた酒井さん。とにかく全国の大学と大学院をしらみつぶしに調べたら、北陸先端科学技術大学院大学が定員の5%のみ文系や別分野の人員の採用をしているとわかった。ここしかない。結局受験したのは酒井さんともう1人だけで、無事に入学がきまった。
ITを学ぶことが決まったあとは、神学部にいたITマニアや、サッカー部の先輩で同志社の大学院に行っていた人などを紹介してもらい、とにかく知識を仕入れた。「私もよく『初心者なんだけどどうやって勉強したらいいですか』って聞かれますが、新しいことを勉強する時は、自分より知ってる人にくっついて覚えるのが一番早い気がします。語学もそうですが、自分よりスキルのある友達を見つけるのが近道かなと」
大学院では2年間、寝る以外はずっと勉強という生活が続いた。大学で4年間情報系の学部に行ったとしても、一般教養などの科目もあり実際にプログラミングに触れるのはゼミだけ、といった学校もあるという。「それに比べたら、自分は集中的に必要なものだけ学ぶことができたなと思います」。教授にもサーバーやネットワークなどの分野を絞れば、その領域では勝てると言われたことも励みになった。
大学院には海外からの交換留学生もやってきていた。その時に「自分も海外に行けるかもしれない」とうっすらと考えたという。「ベトナムから来た留学生がいたんですが、日本人の友達をたくさん作ってどんどん日本語が上達していったんです。こんな感じで日本語を覚えられるんだったら、海外に行って自分も英語を覚えられるんじゃない?って」
「このまま日本にいては置いていかれる」
とはいえ、その時はまだ海外志向が明確になったわけではなかった。決定的になったのは、システムエンジニアとしてNTTドコモに入社して2年目のときだ。
ドコモでウィンドウズモバイルを提供するプロジェクトを担当することになり、マイクロソフト、台湾のHTCからエンジニアが打ち合わせにやってきたときのこと。マイクロソフトはアメリカの企業なので当然英語だが、HTCのエンジニアも英語をしゃべった。かたや、ドコモだけが通訳をつけている。「それがかなりショックでした。しかもITの知識も高度なもので、日本にいたら絶対に置いていかれる、と思ったんです。なので世界のトップでやらないといけない、シリコンバレーに行こう、と決めました」
とはいえ当時、酒井さんのTOEICスコアは300点あまり。社内でも下から2番目のレベルだった。高いお金を払って英会話教室にも行ってみたが、思うような効果は得られない。そこで、英語ができる日本人を連れて六本木に行くことにした。海外の人が多く集まるバーなどに行き、話しかける。サッカーをやっている人をみつけて、チームに参加させてもらう。最終的には外国人の弁護士の家にホームステイのように2カ月ともに暮らしたこともあった。さらに会社の休みを使ってオーストラリア、グアム、アメリカに短期留学もした。
しかしアメリカで働くには、英語力だけでなくビザが必要になる。企業に就労ビザを出してもらうのが一般的だが、会社を登記してビジネスで利益を上げ、「経営者ビザ」でアメリカにいく方法もあると気づいた。そして副業としてやっていたビジネスで、2006年にハワイで会社を登記。その日本支店という形でビジネスをすすめた。
しかし会社はすぐに利益が出るものでもない。英語もまだままならないが、なんとかアメリカで働けないか。その際に考えたのが、在米日系企業への転職だった。シリコンバレーのある西海岸では、当時ネットワークエンジニアの募集が多かったため、その職種を務められるような資格を日本で取って準備した。
結果的に狙っていた企業の求人が出た瞬間に応募。スカイプで面接後「来週アメリカに面接に来てください」と言われ渡米、面接して帰国した次の日には内定をもらった。
晴れてアメリカで働けることになった酒井さんだが、渡米した先でも順風満帆というわけではなかった。
『複業の思考法』酒井潤・著
【不確実な時代に差をつける! キャリアとスキルを掛け合わせて「稼ぐ方法」】「年収を上げたい」「今の会社で長く働きたくない」「人生100年時代と言われてもピンとこない」という悩みや不安を抱えている人は多い。それは、自分で限界値を決めつけているから。視野を広げ、思考を変える。それだけで、生涯収入が劇変し、40歳以降は悠々自適の生活を送ることができる。日本企業でエンジニアとしてのスキルを身につけ、海外で起業、現在は米国スプランクで働く著者が、キャリアとスキルを掛け合わる独自の複業法を明らかにする。また、Udemyの人気講師としての経験から、スキルを活かした副業テクニックも紹介。会社に頼らず生きていくための「アフターコロナの処世術」。
発行:PHP研究所