サッカー

連載:4years.のつづき

金メダルの栄光とプロへの誘い、それでもサッカーを辞めると決めた 酒井潤2

大学日本代表にも選ばれ、東アジア大会に出場。しかし夢だったプロには進まなかった (C)JUFA/REIKO IIJIMA

今回の連載「4years.のつづき」は、同志社大学時代にサッカー大学日本代表としてプレーし、今はシリコンバレーでエンジニアとして働く酒井潤さん(41)です。サッカーを極めた酒井さんがどのようにキャリアを積んでいったのかを、4回に分けて紹介します。2回目は同志社大学に入学、大学日本代表としてプレーしますがサッカーをやめる決断をしたことについてです。

ジーコの言葉がプロサッカー選手志望の少年の心を動かした 酒井潤1

同志社大「しんがくぶ」への進学

当時、関東の大学は組織としてのシステムを重視し、関西の大学のほうが個人技を多用する、というスタイルだった。ドリブルが好きで、あまり役割を当てはめられるのが好きではなかった酒井さんは、関西に行ってサッカーを続けようと思ったという。

スポーツ推薦で同志社大学神学部に入学した酒井さん。当時スポーツ推薦は神学部にしかなかった。だが「『しんがくぶ』っていうからなんとなく『進学』かなって思ってたんです。それでよくよく調べたら『神』だったんでびっくりしました」というぐらい学部には興味がなかった。

新しい環境に進むが、ここでも入学前から大学の練習に参加させてもらった。部員は100人ほどいたが、酒井さんはレギュラーを獲得し、試合にも出続けた。

内側靭帯を切ってから、自分のパフォーマンスが万全でないのはわかっていた(C)JUFA/REIKO IIJIMA

勉強の方はというと、ほとんど授業には出ず、テストが5点というときもあった。しかし神学部は聖職者を目指す人も多い学部。「それもあってなのか、みんな本当にいい人ばっかりでした。勉強がわからなかったら手伝ってくれたりとか、こんなにいい人が世の中にいるんだ! っていうのも衝撃的でしたね」

イタリア代表・カッサーノから受けた衝撃

サッカーに打ち込んでいた酒井さんだが、1年生の終わりにプレー中に左足の内側靭帯を切ってしまう。人生初の大けがだった。数カ月で復帰できたが、走るスピードが落ちたと感じた。その部分はトレーニングでカバーする日々が続いた。

3年時には初めて大学日本代表にも選出。それまでずっとあこがれてきた日本代表だったが、日の丸をつけて戦うプレッシャーは想像以上だった。国として戦わないといけないという意識が芽生え、普段どおりのプレーができなくなることもあった、と振り返る。

トゥーロン国際大会に出場した際にイタリア代表と戦った。その中にのちにレアル・マドリードやミラン、インテルなどでもプレーすることになるアントニオ・カッサーノがいた。その身体能力に酒井さんは度肝を抜かれた。「ずっとサッカーをやってきて、それまで見てきた選手の中でも一番うまかったです。後ろにも目がついているんじゃないか、というぐらい一瞬見ただけで正確なパスを出したり……とにかく次元が格上だと思い知らされました」

東アジア大会での金メダル。これが酒井さんのサッカー人生最高の出来事だった(下段左端、(C)JUFA/REIKO IIJIMA)

2001年5月に大阪で開催された東アジア競技大会にはMFとして出場。金メダルを獲得し、これが競技人生で最も大きいタイトルになった。

プロからの誘いも、サッカーをやめる決断

国際大会での優勝経験、そしてMFのポジション。酒井さんにはガンバ大阪やFC東京のようなクラブから誘いがきていた。しかし、けがによってパフォーマンスが落ち、本来の能力を発揮できていないという思いはずっとあった。「プロに行っても長続きしないのかなという思いはありました。どうしても小さなスピードに欠けるというか」

そしてJリーガーの給料も調べてみた。当時はJリーグ全体が不景気に沈んでいる時。大学を出て就職した場合とさほど変わらない給料のクラブもあった。そして「日本代表クラスにならないと選手としては稼げない」という結論に達する。日本代表になるためには、万全のパフォーマンスを出せない自分では無理だ。それこそ、カッサーノのような身体能力が必要、だがそれは持っていない。今までサッカーのことしか考えてこなかった酒井さんは、サッカーをやめる決断を下した。

自分の人生をどうしたいか。考えに考えて、酒井さんはサッカーを諦めた(C)JUFA/REIKO IIJIMA

「大学日本代表としてブラジルに遠征する機会があったんです。その時にスラム街で、『食べ物がないからこの子はもう明日死ぬ』という状態の子どもたちを見たりもして……それに比べたら、自分がサッカーをできなくなることぐらい不幸じゃないなって思えたんですよね」。人の話を聞くのではなく、実際に自分の目で見たからこそそう思えた。

それから酒井さんは、「好きとか嫌いとかではなく、生きていくために」どうすればいいかをひたすら考えた。神学部の偏差値は50ほどで、就職率という点では決して良いとは言えなかった。折しも就職氷河期、通常の就職は難しそうだ。資格があれば食いっぱぐれないだろう、という考えから、弁護士や公認会計士などの資格を取ることも検討してみた。そんな時に神学部の指導教授が「これからはITだから、ITと英語をやるといいよ」とアドバイスしてくれた。

「興味を持って調べたら、自分に合っていそうだなと思って。それから当時海外、IBMのプログラマーは年収5000万と教えてもらったりして、これだったらサッカー選手にならなくてももっと上を目指していけるんじゃないかと」

とはいえ文系からITを学びエンジニアになるには、どうすればいいのか。稼ぐ力をつけるために、とにかくまず調べることから始めた。

サッカー漬けからエンジニアへの変身、日本にい続けることへの危機感 酒井潤3

『複業の思考法』酒井潤・著

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発行:PHP研究所

4years.のつづき

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