バレー

連載:監督として生きる

東海大で積山和明・前監督が示してくれた指導理念 東海大・藤井壮浩監督2

大学への進学を意識し始めた時、自分に道を指し示してくださったのが佐々木監督だった(撮影・すべて松永早弥香)

春季リーグと東日本インカレを制した東海大学女子バレーボール部。チームを率いるのは、自身も東海大で学び育った藤井壮浩監督(49)です。監督として14年目、コーチ時代も含めれば16年を数えます。連載「監督として生きる」では現役時代も含め、4回の連載で紹介します。2回目は学生として過ごした東海大での4年間についてです。

石巻市で生まれ育った少年が宮城県選抜を機に強豪・東北高へ 東海大・藤井壮浩監督1

監督から示されたもう一つの将来像

藤井さんの現役時代を振り返ると、けがが多い選手生活だったと言う。だがそれも、思えばすべて「今」につながる道でもあったのかもしれない。“けがの功名”と言えば少々大げさかもしれないが、東海大へ進学するきっかけをつくったのも、ある種、東北高校(宮城)時代のけががきっかけだった。

膝(ひざ)を負傷し、宮城県外の治療院へ通う道すがら、車中で東北高校を率いていた佐々木繁雄監督(当時)が何気なく藤井にたずねた。

「進路どうする?」

 大前提は実家の家業を継ぐこと。深く考えず、藤井は答えた。

「大須(実家)に帰ろうと思っています」

「大学はどうするんだ?」

佐々木監督が発した“大学”というワードに、少し言葉が詰まった。当時は関東大学1部リーグに在籍する選手が日本代表でも活躍しており、もちろん自分もできるならその場所で勝負してみたい、という思いはある。とはいえ、どれだけの金額が必要か想像もつかない。漠然とした希望を言うぐらいはいいだろう、と考えた。

「もしも大学へ行けるならば、東海がいいと思っています」

当時は法政大学と東海大が大学界のトップチームであったという理由だけでなく、高校の先輩や、ジュニア(現・U20)日本代表でともにプレーした選手も多く在籍しているのも魅力だった。あくまで高校生の、素朴な憧れではあったが、佐々木監督は東海大を率いていた積山和明監督(当時)の人柄も熟知しており、藤井さんには言わなかったが「進学させるならば東海大で積山先生に見てほしい」と考えていた。互いの思惑が一致すれば迷うことはなく、春高準優勝やユースとジュニア日本代表での実績も評価材料となり、東北高校を卒業後は晴れて東海大へ。

そして佐々木監督からは選手としての目指す道だけでなく、もう一つの将来像も示唆された。

「いつか来る将来のために、保健体育の教員資格をとって、教員、指導者になる準備をしておきなさい」

考えもしなかった「指導者」としての道が開かれたのは、東海大への入学が大きなきっかけでもあった。

今のバレーと昔のバレーの違い

同世代や一つ、二つ上には日本代表として活躍する選手も多く、試合会場はいつも満員。現在も東京オリンピックに出場した大塚達宣(早稲田大4年、洛南)や高橋藍(日体大3年、東山)が人気を集めている。だが、華やかさと注目度、個々の選手のバレースキルという点では「昔の方がうまかったかもしれない」と言いながら、バレーそのものの違いがあることを前提に、今と昔を藤井さんはこう見る。

(左から)大塚や高橋など、日本代表としても活躍する学生もいる

「今の子たちの方がよく練習しますよね。単純に長い時間やるということではなく、自分の体に対しての向き合い方とか、アスリートとしてどうあるべきかという意識に関しては、今の選手の方が高いように感じます」

象徴的なのが、1月に開催される春高バレーだ。ここ数年はコロナ禍で藤井さん自身は会場に足を運ぶことはできていないが、テレビ中継やインターネットでの中継を見ながら、プレーの巧みさだけでなく高校生が発する言葉に感服したと言う。

「勝因や敗因を述べる時、今の子たちはごく自然に戦術的な話をしていたんです。僕らの頃もまったくなかったわけではないですが、やはり気持ちの面に対しての発言が多かったし、先生が発した言葉に対して『ハイ!』と返事をして実行する方が圧倒的に多かった。僕らは指導者から教わることがすべてでしたが、今はたくさんの映像やアニメ、マンガ、たくさんのコンテンツを通して学ぶことができる。そもそも競技を選ぶという観点でも、選択肢が多くない時代から、スケートボードもあればeスポーツもあるという時代です。選択肢が増えた中で何にアンテナを張り、何を学ぶか。バレーボールの技術だけでなく、様々なことを勉強する姿勢も今の選手たちは素晴らしいと思いますね」

卑下するのではなく、認める。たとえ世代や時代が異なれど、いいものはいいと素直に言える。そんな姿勢は、もともとの性格もあるが、自身の大学時代から変わらぬ師である積山監督の存在も大きい。練習中や試合中、声を荒げることはなく黙って見ていて、違う方向へ行けば道を正し、進むべき方向がどこであるのかを気づかせる。大学時代に得た勝利やタイトルよりも、積山監督から学んだことは何より大きな財産だと振り返る。

「例えば試合に負けたとする。『次の日は練習だ』とスケジュールを変更するチームがある中、積山先生はそうじゃない。休みは休みで、負けたから明日練習だぞ、と急に変わることはないんです。何気ないことですが、今思えば、それは学生である僕らを1人の大人として認め、理解してくれていたからなんだな、と。やんちゃな選手も多かったですから、ときには認められるような行動をしていたわけじゃないけれど(笑)、それでもやみくもに管理することはなく、大きく構えて『いずれ分かるだろう』と我慢強く認めてくれた。粋ですよね。いつか自分が指導者になったら、同じことを学生にしてあげたいと思ったし、実際、指導者になった今も同じ。学生たちを認めてあげたい、と常に思っています」

Vリーグを経て指導者へ

4年生になり、主将を務めた最後の全日本インカレで、東海大として初めて男女アベック優勝を成し遂げた。卒業後はVリーグのNECブルーロケッツに在籍。2002年の引退後、女子のJTマーヴェラスでコーチを務め、06年からは母校の東海大へ戻って女子バレー部のコーチとなり、08年に監督へ就任。同じ関東大学リーグの指導者だけでも、見渡せば豊富なキャリアを持つ面々ばかり。Vリーグでの選手経験があるとはいえ、監督としては初心者の自分がどれだけできるのか。まったく見当もつかないところからのスタートではあったが、「周囲の人に恵まれた」と振り返るように、選手時代やVリーグで培った人脈がつながり、監督就任1年目から全国の指導者が選手を快く東海大へ送り出してくれた。

監督として新たなスタートを切った藤井さんは、自分がいろいろな人に支えられていることを改めて実感した

「何よりありがたいのは、高校の先生方がハートのある選手たちを送ってくださること。僕は勝った、負けた、よりもかっこいい4年生であってほしいし、ハートでプレーする選手であってほしい。でもみんな、そういう子たちが集まってくれて、お互い話し合ったり、手助けし合っているから、僕の指導なんていらないんですよ(笑)」

選手生活も十分楽しかった。そして指導者となった今も、もちろん大変なことはあるが、変わらず楽しく、毎日は刺激で溢(あふ)れている。高校生の頃には考えもしなかったが、やはり思う。

「恩師、選手、支えてくれる人たち。周りの人に恵まれて、敷かれたレールの上を走っているうちに、ここまで来られただけなんです」

スター軍団の中でキラリと輝く一般入部組、練習も学生主体 東海大・藤井壮浩監督3

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