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連載:監督として生きる

石巻市で生まれ育った少年が宮城県選抜を機に強豪・東北高へ 東海大・藤井壮浩監督1

藤井さんは2006年に母校の東海大で女子バレー部のコーチとなり、08年から監督を務めている(撮影・松永早弥香)

春季リーグと東日本インカレを制した東海大学女子バレーボール部。チームを率いるのは、自身も東海大で学び育った藤井壮浩監督(49)です。監督として14年目、コーチ時代も含めれば16年を数えます。連載「監督として生きる」では現役時代も含め、4回の連載で紹介します。初回は東北高校(宮城)時代のお話です。

ときには、練習よりもアワビ漁の手伝いに

藤井さんは現役時代、東北高校で名を馳(は)せ、東海大で全日本インカレを制覇。卒業後はNECでプレーするなど華々しい戦績を誇るが、当時の写真やユニホームは、ほぼほぼ手元にない。そう笑いながら、スマートフォンの中に保存された1枚の写真を見せる。映るのは、まるで台風のような高い波の中で楽しそうに遊ぶ海辺の風景。

「昔のCMに載っていた写真なんですけど、地元の人間はこの状態で普通に海で遊ぶ。田舎の漁師町なんですよ」

出身は宮城県雄勝町(現・石巻市)。海と面する町で、バレーを始めたのは中学1年生だった。とはいえ、「バレーボールをやりたい」という意志のもとではなく、むしろそれしか選択肢がなかったからだと振り返る。

「僕の小学校で同級生は男子が6人で女子が13人。少ないんですよ。特に男子は隣の学校と併せても8人しかいないから、クラブ活動も限られる。小学生の頃はみんな野球をして、中学からはバレーボール。練習ができる体育館なんて立派なものはなかったので、土のコートで練習するから冬は寒いし、日が暮れるのも早い。雪かきは当たり前だし、雨の日は水がたまるからぞうきんがけで水を抜かないといけない。なかなか過酷な環境でした(笑)」

中学時代の土のコートは藤井さんの原点(写真は本人提供)

確かに恵まれた環境ではない。しかもアワビ漁の時期になれば、練習よりも漁の手伝いに出かけるのが当たり前。朝から晩までバレーに熱中していたとはお世辞にも言い難い環境だったが、幼い頃から海で遊んできたことで体も鍛えられ、足腰も強い。ジャンプ力に長(た)け、運動能力が高い選手が多かったことに加え、大人たちから受け継がれる「どんな相手にも負けるな!」の根性、根っからの負けず嫌いも相まって、大会に出れば好成績を残した。

宮城県選抜の仲間に触れ、東北高校を意識

藤井さん自身も当時から身長が高く、中3でさわやか杯(現・JOC杯)に宮城県選抜に選ばれるなど、全国大会も経験した。とはいえ、実家はもともと商店を営み、大人になったら何になりたいかと聞かれたら、「バレーボール選手」よりも「家業を継ぐこと」の方が現実的だった。だが、宮城選抜を機にバレーとの関わりが濃くなっていく。大きな転機になったのが高校進学だったと振り返る。

「実家は酒屋なんですが、プロパンガスや燃料も扱うので危険物取扱者の資格を取るために古川工業へ進学しようと思っていました。基本的に僕の地元もバレーボールをやっていた子たちは古川工業へ進むのが大半だったし、考えるまでもなく、自分も古川工業へ行くのが普通のことだと思っていました。でも(さわやか杯の)チームメートは、東北高校に行く子たちが多かった。僕からすれば東北高校は当時からスポーツのエリート校で縁がない場所だと思っていましたが、自分も頑張れば手が届く場所なんだ、と初めて思えるようになったんです」

時を同じくして、東北高校からバレーの推薦入学の声もかかり、たまたまいとこが東北高校で教員をしていたことや、体のケアをしてくれる接骨院の先生が東北高校に縁があったこと。様々なつながりが面白いように点から線になり、ごく自然に「東北高校へ行きたい」「強い場所でやってみたい」と考えるようになった。

幼い頃は「選択肢がそれしかなかった」からバレーを選んだが、町から県、全国と新たな経験を重ね、高校は日本一を目標とする東北高校へ。新たな道が開かれていった。

東北高でユース代表、春高準優勝

情報を集めようとすれば、スマートフォンやパソコンを駆使して様々な時代や、各国の選手、リーグの映像も簡単に集められる今とは異なり、藤井さんの学生時代は情報を得るにも手段が限られていた。大須中学校(宮城)に入学後、「これを見て勉強するように」とバレー部の先輩からもらったビデオテープに録画されていた、法政二高校(神奈川)と習志野高校(千葉)の春高準決勝の映像が唯一の教科書だった。

中学時代は石巻市で一番になることが目標だったが、お手本が春高の準決勝であったように、東北高校で目指すは日本一。自身が志す前に、周りの環境が自分の意識を変えてくれた。

「ちょうど僕が高校時代にユース(現・U18)の大会が始まって、第1回のタイミングで選ばれた。これもラッキーで、ありがたいめぐり合わせですよね。ユース代表でアジアや世界の大会に出て、そこで顔を合わせる海外の選手とも友達になる。日本代表のユニホームには日の丸があって、その縁取りがユースは白、ジュニアは銀、シニア代表は金。そういう一つひとつも『次はもっと上のカテゴリーに行きたい』とモチベーションになるし、昔は石巻で一番になることが目標で、宮城で一番になることを目指していたのに、高校で日本一になることへ変わる。さらには世界で勝つこと。人との出会いや大会とのめぐり合わせも重なって、進むべき場所、目指すべきところがどんどん高く、大きくなっていったんだと思います」

様々な出会いやめぐり合わせを経て、今の指導者としての道がひらけた(写真提供・東海大学女子バレーボール部OG)

入学からしばらくはなかなか全国で勝てず、悔しさを味わったが、高2の春高では優勝こそ手が届かなかったものの、決勝に進出して準優勝も経験。実家の家業を継ぐはずが、恩師に敷かれたレールをたどるうち、新たな目標を生み出し、選手としての意識もキャリアも変えた。蒔(ま)かれた種がさらに大きく実り、花咲いたのは東北高校を卒業後に進学した東海大に入学してからだった。

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