バレー

連載: プロが語る4years.

打倒・福澤達哉を胸に東海大へ、先輩の支えで恐怖を克服 パナソニック・清水邦広2

大学こそは日本一になりたい、福澤達哉に勝ちたい。その思いを胸に、東海大学へ進んだ(撮影・朝日新聞社)

今回の連載「プロが語る4years.」は、バレーボール男子日本代表としても活躍するオポジットの清水邦広(34)です。2009年に東海大学卒業後、Vリーグのパナソニックパンサーズでプレーしています。4回連載の2回目は東海大学時代についてです。

バレーが基準じゃない道を歩んで進学し、プロに、日本代表になった 福澤達哉1

福澤が進む中大だけには行かん

東海大在学時から日本代表にも選出され、数多くのタイトルを獲得。青字に白、白地に青の東海大のユニホームが今も鮮やかに思い浮かぶが、実は高校から大学へ進学する際、別の選択肢も頭をよぎったと言う。

「東海も含めた3校ぐらいの中に、中大もありました。行ってみたいな、という気持ちもあったんです。でも、福澤(達哉)が中大に行くと聞いて、絶対中大だけは行かんとこ、と決めましたね。高校3年間、ずっと福澤に負け続けたので、大学では絶対にリベンジしたい。東海大に行って、絶対福澤を負かしてやる、と思って(東海大に)決めました」

手が届きそうで、届かない壁。当時の清水にとって、福澤はそんな存在だったと振り返る。春高、インターハイでことごとく敗れた高校時代、先に日本代表に選出され、ワールドリーグに出場したのも福澤の方。

「自分が目標にしてきたこと。全国優勝とか、代表に入る、代表に入って活躍すること。そういう夢を全部福澤が先に実現させていた。だから、当時の僕は福澤を追い越すどころか、常に追いかけていました」

「打倒福澤」を決定的にした出来事

今は互いを認め合う、唯一の存在とも言うべき絆でつながる2人だが、当時は違う。特に清水のライバル心は強く、「打倒福澤」を決定的にした出来事が、大学1年生の東西対抗で行われたオールスター戦だった。

中央大学に進んだ福澤(右)は、清水よりも先に大学バレーで活躍していた(撮影・朝日新聞社)

高校を卒業して間もなく中央大学のレギュラー、1年生エースとして活躍していた福澤に対し、清水は試合に出られるか出られないかという現状で、コートに立つよりもコート外の準備や仕事に追われる日々。活躍が目立った選手が出場する東西対抗にも福澤が選ばれたのに対し、清水はボールレトリバーやラインズマンなどコートに立つ選手ではなく、その選手たちをサポートし、試合を運営する立場だった。

「めちゃめちゃ悔しかったです。だって、高校時代はライバル視されていたのに、片や1年生でオールスター出場、片やその福澤にボールを渡す役。その現実が悔しくて、ムカついて、本当はボールを渡す時もぶつけてやりたいぐらいだったし、試合中も“福澤ミスしろ”“福澤だけは活躍するな”って思っていました」

初めての全日本インカレで猛烈に後悔

むき出しの悔しさとライバル心。だがうらやむばかりでなく、追いつき、追い越すために何をすべきか。清水は「自分を変えなければいけない」と決意した。実はもう1つ、一生忘れられないのではないかと思うほどの悔しさも同時期に経験していたからだ。

最初の全日本インカレに1年生ながらオポジットとして出場した。それまで同じポジションに入った先輩たちが、チームとして清水の攻撃力を生かすべく、アウトサイドヒッターやミドルブロッカーに転向し、万全の状態で迎えたはずの舞台。だが、筑波大学との決勝で清水は絶不調。ブロックを避けて打てばアウトになり、無理にコースを抜こうとすればネットにかかる。日本一まであと一歩に迫りながら、決勝で敗れて4年生たちが泣き崩れているのを見た瞬間、猛烈に後悔し、自分を責めた。

「4年間やってきた4年生の大切な大舞台を、僕1人、1年生がぶち壊してしまった。正直に言えば、僕自身、高校時代で頂点をかけた戦いを経験したことがなかったし、そういう場でどうすればいいか手立てがなかったし、うまくいかない時に挽回(ばんかい)する力も策もなかった。だから試合中もトスを持ってきてくれ、と思えず、むしろ『トスが上がってくるな』『スパイクを打つのが怖い』という気持ちしかなかった。崩れるように泣いていた4年生がこれだけ思いを込めて臨んだ大舞台で、何てことをしてしまったんだ、という思いしかありませんでした」

支えてくれる先輩たちがいたから

後悔と怖さを払拭(ふっしょく)するためには練習するしかない。授業以外の時間は1人でもできる練習に充て、ボール練習だけでなく体力強化、筋力アップのためにトレーニングやランニングも自身に課した。全体練習が21時過ぎに終わり、寮へ戻り食事を済ませる。23時過ぎから毎日5kmを走り、強くなるため、壁を破るため、そして福澤に勝つまで絶対にやり続けようと毎日ひたすら走り続けた。

そんな清水を支えたのが当時の先輩たちだった。毎日必ず練習の最後はゲーム形式の実戦練習が行われ、スパイク決定率やミス率、効果率など個々の細かなデータを取る。いかなる場面でも決めようと躍起になる清水に、2個上のマネージャー、長谷川朋彦は清水にノルマを掲げた。

大学時代に先輩たちの献身的な姿を見て、自分が戦う意義を強く感じた(写真提供・パナソニックパンサーズ)

「ゲーム形式の練習でスパイク決定率55%以上、ミス率は20%以下に抑えろ、それができなかったらワンマンレシーブをするぞ、と。しかも僕がやられるだけじゃなく、長谷川さんも『お前がクリアできなかったら、俺もワンマンするからボールを出せ』と言われたんです。東海大は人数も多いし、全員が試合に出られるわけじゃなく、3年生からスタッフに回る先輩もいます。それでもチームのため、自分のために例え試合に出られなくても一生懸命自主練習する先輩たちの姿も見てきたし、自分のために目標を与えてくれて、一緒に乗り越えようとしてくれる。そんな先輩たちがいたから、怖さを乗り越えて、福澤にも勝つことができたんだと思うんです」

大学2年生の春季リーグで、自身も福澤も出場した試合で初めて勝った。ずっと勝てなかった相手にようやく勝てたこと、そしてそれ以上に勝利を分かち合い、ともに喜んでくれる先輩たちの存在が何よりうれしく、清水を更に強くした。

そして大学3年生になった07年。学生時代から切磋琢磨(せっさたくま)してきたライバル・福澤とともに、清水へ大きな転機が訪れた。

プロが語る4years.

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