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連載: プロが語る4years.

16年ぶりの五輪での悔しさ、福澤達哉とのラストマッチ パナソニック・清水邦広3

清水(中央)と福澤(右)は代表強化合宿で、植田監督(当時、左)に徹底的に鍛えられた(写真は2012年のもの、撮影・朝日新聞社)

今回の連載「プロが語る4years.」は、バレーボール男子日本代表としても活躍するオポジットの清水邦広(34)です。2009年に東海大学卒業後、Vリーグのパナソニックパンサーズでプレーしています。4回連載の3回目は東海大学時代に経験した北京オリンピックと最後の全日本インカレについてです。

バレーが基準じゃない道を歩んで進学し、プロに、日本代表になった 福澤達哉1

吐くほどつらかった代表の強化合宿

北京オリンピックを翌年に控えた07年。東海大3年生の清水は日本代表登録選手に選ばれ、その年のワールドカップにも出場した。1992年のバルセロナ大会以後遠ざかっていたオリンピック出場に向け、植田辰哉監督(当時)の下、基礎体力の向上や基本技術を習得。若手もベテランも関係なく全てを出し切るオールアウトを体現すべく、決して大げさではなく代表合宿は想像を絶する日々だった、と振り返る。

「基本的にレシーブ練習から始まって、スリーマン、ツーマン、ワンマンとレシーブする人数が減っていくんです。永遠に終わらないんじゃないかというぐらい動き続けて、立ち上がれなくなるまでボールを追い続ける。しかも合宿中に体を追い込むだけでなく、筋力、体力をつけることも求められていたので、トレーニングも食事の量もハンパない。比較的細い松本さん(慶彦、堺ブレイザーズ)や、富松さん(崇彰、東レアローズ)は食べなければならない量も多いので、昼食や夕食、毎回食事に2時間近くかかって食べて、また動く。今のように合宿は基本的にNTC(ナショナルトレーニングセンター)だけではなく、当時は芦別(北海道)で強化合宿があって、何よりきついのが坂道ダッシュ。学生だった僕ですら、吐くほどつらかったので、今思えば荻野さん(正二、現サントリーサンバーズアンバサダー)とか、先輩方はよくあんなに走れたな、と改めて感じますね」

清水はワールドカップに出場したが、ともに代表候補に選出された福澤達哉(現パナソニックパンサーズ)は直前で落選。試合に出場してもなかなか勝てなかった悔しさと、その場に立つことすらできなかった悔しさ。更に強くならなければならないと誓う2人に、植田監督は強化合宿の機会を設けた。同時期にVリーグが行われていたため、参加する選手は清水と福澤、2人だけ。トレーニングとレシーブ練習に加え、コートの6カ所から1時間半以上ひたすら打ち続けるスパイク練習。

「僕はスパイクが好きで、打ちたがりですけど、さすがにあの時はスパイクを打つのが嫌になった(笑)。毎日、もう勘弁してくれ、と思いながら打っていました(笑)」

北京オリンピック出場を決める舞台に、清水(左から2人目)と福澤(左端)は先輩たちとともに戦った(撮影・朝日新聞社)

厳しく、苦しい練習の成果を実らせ、オリンピック最終予選を勝ち抜き、男子バレー日本代表は16年ぶりのオリンピック出場権を獲得。だが、悲願達成の喜び以上に、清水に残ったのは悔しさ。ワールドカップでは出場機会もあったが、より結果が求められたプレッシャーのかかる最終予選は控えに甘んじた。

あれほど夢見たオリンピックも、目の色を変えて戦う海外勢を前に1つの勝利を挙げることもできないまま予選グループリーグ敗退。今でも「先輩方に連れて行ってもらったオリンピック」と繰り返すように、出場はしたが何かを成し遂げたわけではない。負けた、という結果だけでなく、試合に出て勝利を引き寄せることすらできなかった悔しさを味わい、これからに向けた決意が定まった。

「勝ちに飢えていたんです。代表で悔しさを味わった分、大学では絶対に勝ちたい、とそれまで以上に思うようになりました」

最後の全日本インカレで勝つため、セッター深津に厳しく

最上級生でチームのキャプテン。春季リーグや東日本インカレは日本代表で活動していたため、清水にとって最後の最も大きなタイトルが全日本インカレだった。

1年生での全日本インカレで自身が足を引っ張り、4年生が泣き崩れた姿を見て、更なるレベルアップを誓い毎日走り込んで、2年生では悲願の日本一。だが日本代表に選出され、ワールドカップを終えてから時間も限られていた3年生の時は準優勝に終わり、これがラストチャンス。自分のためというよりも、後輩たちに勝利を味わわせるべく最後は勝って終わりたい。

そう強く思えば思うほど、要求も高くなる。特に練習中から最も厳しく接してきたのが、1学年下のセッター、深津旭弘(前JTサンダーズ広島)に対してだった。

「基本的に僕はスパイクを打ちたいから、全体練習だけじゃなくて自主練習の時も必ず深津を呼ぶんです。それで『ボールを取る位置は必ず一定にしてくれ。トスはこのぐらいの高さで』とめちゃくちゃ細かく要求する。全部が全部完璧じゃないのは分かっていますが、僕はあえて乱れたトスは打たなかった。セッターにとって、上げたトスをスパイカーが打ってくれないって、ものすごく屈辱だと思ったんです。それでビビッて、またトスが乱れたらわざとアウトにしたり、ひどい時は深津に向かってスパイクを打ったり。なかなか結果が出ないことに対して僕自身イライラしていたのもありますが、日本代表で勝つことに対する厳しさは徹底的に見せられてきたので、学生の僕らはもっとそれ以上にならなきゃいけないと思った。だから深津にはめちゃくちゃ厳しく接したし、今思えばホントに、ひどい先輩だったと思いますよ(笑)」

学生の時から代表活動をしていた清水(左手前)にとって、最後の全日本インカレは後輩たちのためにできる最後の務めでもあった(撮影・朝日新聞社)

実際はどうか。当時を振り返り、深津は「(トスを上げても打ってもらえない時は)めちゃくちゃ追い込まれた」と苦笑いを浮かべ、こう言った。

「今の僕があるのは、清水さんのおかげ。ひどいトスを上げれば打ってもらえなくて、それはそれで傷つくけれど、清水さんが求めるトスを上げれば絶対に決めてくれる。セッターとして、選手として、自分に大事なことを教えてくれたのが清水さんでした」

全日本インカレ準決勝、福澤との死闘

再びさかのぼり、大学時代へ。数えきれないほど繰り返したスパイク練習を経て、清水にとって大学最後の試合、全日本インカレを迎えた。王座奪還、日本一が目標であることは言うまでもないが、その前に超えるべき大きな1つの壁が準決勝。東海大が対戦したのは、福澤が主将を務める中央大学だった。

高校時代からのリベンジを誓い、大学時代で数多く勝利を収めた清水に対し、福澤は大学ではほとんど清水に、東海大に勝てずにいた。互いにとって、これが最後の対戦。「完全に燃えていた」と振り返るその一戦は、まさに死闘と呼ぶにふさわしい試合となった。

ジュースの末に東海大が第1セットを先取し、第2、第3セットは中央大が連取。第4セットは中央大にリードを許した状況から東海大が取り返し、第5セットへ。清水、福澤、両エースの壮絶な打ち合いの末、最後は清水が決め15-12、フルセットの激闘は東海大が制した。インターハイで福澤に敗れた時はコートに転がり、悔しさで立ち上がれなかったあの夏から4年。やっと、勝って終わることができた。

だがまさに死力を尽くした準決勝を終え、決勝は翌日。福澤と、中央大との対決に全てを注いだ清水に、日本一をつかむ力はもう残っていなかった。

「目標は日本一。それは変わらないです。でも、あの準決勝が全てでした。燃え尽きた、あの(中央大との)試合で満足してしまった自分もいました。1点の重み、1点取った時の喜び。全部、出し切りました」

目指した優勝、日本一には届かなかった。だが悔いはない。あれほど、熱い試合ができたのだから。

プロが語る4years.

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