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連載:監督として生きる

日本選手権11連覇「どこかで負けておけば」と今は思う 大阪成蹊大・金丸祐三監督3

法政大を卒業した今も、「苅部さんの背中を見て学んだことが自分の中に生きている」と金丸さん(左)は言う(写真は本人提供)

前人未到の400m日本選手権11連覇、3度のオリンピック、7度の世界選手権。「金丸ダンス」という言葉は陸上業界を越えて広く知られるようになりました。2021年3月末に引退を発表し、同年4月から大阪成蹊大学女子陸上部のコーチに、翌22年4月には監督に就任。連載「監督として生きる」では、そんな金丸祐三さん(34)の現役時代も含め、4回の連載で紹介します。3回目は法政大学から実業団・大塚製薬に進んだ現役時代についてです。

法政大3年目に改革に着手、3年ぶりの自己新と初の五輪 大阪成蹊大・金丸祐三監督2

「苅部さんそのものが自分の中に生きている」

法政大で学生ラストイヤーを前にして、金丸さんは主将に就任。1学年上で親交も深かった竹澤健介さん(元・早稲田大主将、現・摂南大HC)や横田真人さん(元・慶應義塾大主将、現・TWOLAPS TC代表兼コーチ)が、主将としてどんなことをしていたのかを見聞きしていた。だが、「法政はあまりキャプテンが引っ張るチームではないし、関東インカレも2部に降格しなければOKみたいな感じだったので」と、自身の競技に集中してきたという。

5月の国際グランプリ大阪大会では400mで日本歴代4位となる45秒16をマークし、その翌週から始まった関東インカレでは4連覇を達成した。6月の日本選手権で5連覇を果たし、その直後にあったユニバーシアード(セルビア・ベオグラード)でも優勝。8月には世界選手権(ドイツ・ベルリン)とレースが続いた金丸さんは、4連覇がかかっていた9月の日本インカレを前にして、苅部俊二監督に欠場を申し出た。「ケガがなければ出ていただろうけど、リスクを負ってまで出なくてもいいんじゃないかなと。モチベーションが保てなかったというのもあります。日本選手権ですでに5連覇していたし。苅部さんにはちょっと苦い顔をされましたが」

金丸さんは関東インカレ4連覇、日本選手権5連覇など、結果で仲間たちを鼓舞してきた(撮影・朝日新聞社)

法政大を卒業し、実業団の大塚製薬に進んでからも、金丸さんは法政大を拠点に練習を積んできた。引退を意識した時、真っ先に話したのも苅部監督だった。そんな苅部監督の教えで今も生きていることを金丸さんにたずねたら「ないです」と言ったが、その真意は深かった。

「教えとかではなくて、苅部さんそのものですね。苅部さんそのものが自分の中に生きているという感じです。何を教えられたかというよりも、苅部さんと一緒にやってきて、苅部さんの背中を見て学んだことが自分の中に生きている、というのをすごく感じます。指導者になった今も」

勝たなければいけないプレッシャー

実業団に進んでからは、「日本記録の更新」「オリンピックや世界選手権の舞台で個人種目で決勝に残る」を意識しながら競技を継続。日本選手権の連覇記録を「11」まで伸ばした。だが金丸さん自身は日本選手権があまり好きではなかったという。

「どんなコンディションでもとにかくスタートラインに立たないといけない。プレッシャーがどうしてもかかり、特に負けられないという気持ちがずっと大きかったです。どちらかというとチャレンジしてどんどん壁を破っていきたかったけど、そのリスクが怖かったですね。今思えばですが、どこかで負けておけば良かったなという気持ちはあります。もちろん勝っている間は負けてもいいやとは一切思わないので、長い目で見てです。どこかで負けて、考え方の変化が生まれた方が良かったんだろうなとは思いました」

勝つためのレースをしてきた中で、唯一記録にこだわったのが12年、ロンドンオリンピックの選考を兼ねていた日本選手権だったという。万全のコンディションで臨み、予選では45秒99をマーク。だが翌日の決勝は強い風が吹く中でのレースとなり、8連覇を飾ったものの、記録は46秒18にとどまった。400mの日本記録は高野進さん(現・東海大短距離監督)が1991年にマークした44秒78。このレースで偉大な記録に届かなかったことに今も悔しさがある。

可能性にかけたレースで引退を決意

日本選手権の12連覇がかかっていた2016年、金丸さんはリオデジャネイロオリンピックの4×400mリレー日本代表を目指して海外レースを転戦。日本選手権前にケガをしてしまい、予選敗退となった。「でも後悔はないんです。リレーで代表になりたくて、自分が貢献できればと思ってて、それで勝てなかったのは仕方ない。やれるだけやろう、というよりはとにかく目の前のことを積み重ねた結果なので、それ以上でもそれ以下でもないです」。当時28歳。自分に可能性がある限り、チャレンジを続けようと決意し、20年の東京オリンピックを目指して気持ちを切り替えた。

だが東京オリンピックは新型コロナウイルスの影響で延期が決定した。春から秋に延期された木南記念で金丸さんはある決断をする。「47秒台が出なかったら引退する」。コンディションが良くなかったとしても47秒台が出せれば、冬季練習を経て東京オリンピックに挑戦できる。でも出なかったら1%の可能性もないということ。その決意をレース前に打ち明けたのが苅部監督だった。「まだできると思うけど、決めたのなら仕方がないね」と刈部監督は金丸さんを送り出したという。

金丸さんは本気で記録を狙う時にする「金丸ダンス」を木南記念でも見せた(撮影・堀川貴弘)

レースの前にはいつも通りの「金丸ダンス」。この金丸ダンスは高1の時、肩の力を抜くために腕をブラブラしたのがきっかけだった。その結果が良かったため、験担ぎとしてレース前のルーティーンとして取り入れた。高2になってから骨盤を動かすストレッチをするようになり、それが腕の動きと組み合わさって今の形となった。「注目されること自体すごく好きなので、どんどん、サービス精神も含めて。本気で記録を狙う、結果にこだわる時は必ずやってました」

50秒49でゴールした後、金丸さんはうつむきながら膝(ひざ)に手を突き、現役ラストレースを終えた。レース後、妻・速香さんには「なんで言ってくれなかったの? 言ってくれたら、全然見方も変わったのに」と言われたが、これが最後になると金丸さん自身も思ってはいなかった。最後の最後まで、挑戦し続けた男のラストレースだった。

個人種目では「ベストレースはない」

振り返って、今思うことはある。ともに法政大で戦ってきた後輩の岸本鷹幸(富士通)が18年の日本選手権400mHで4年ぶり5度目の優勝を飾った瞬間、金丸さんは涙を流して岸本の復活を喜んだ。その後に自身の400m決勝があったにもかかわらず。「法政大でずっと一緒にやってきて、うまくいっていない時のことも知っていたので、本当に良かったなと。でも、あそこで感傷に浸るのは競技者のメンタリティーではなかった。勝負をかけている選手なら、感傷に浸るよりもっと気合を入れているんだろうし」。その岸本は現在開催中の世界選手権(アメリカ・オレゴン)で4度目の出場を果たした。

自身のベストレースを金丸さんにたずねたところ、「ベストレースというよりはうれしかったレースなら三つある」と言う。どれもリレー種目だ。

一つ目は高3のインターハイで4×100mリレーで優勝した時。二つ目は大学3年生での日本インカレ4×400mリレーで優勝した時。その4×400mリレーは、1学年上で寮の同部屋だった宮沢洋平さんのためにも勝ちたいと思ったレースだった。3走の宮沢さんからバトンを託された金丸さんはアンカー勝負で筑波大学に競り勝ち、優勝を飾った。「自分だけじゃなくてみんなが先輩に勝って終わってほしいと思っていて、そんな気持ちも含めてうれしかったなというレースでした」

三つ目は14年アジア大会(韓国・仁川)での4×400mリレーだ。08年の北京オリンピックで4×100mリレーがメダルを獲得した姿を目の当たりにした金丸さんは、4×400mリレーで結果を出そうと奮闘し、アジア大会ではキャプテンシーを発揮。4×100mリレーは銀メダルだったが、金丸さんが1走を務めた4×400mリレーは金メダルを獲得した。

「今の知識や技術が20代の時にあったら……。誰もが思うことでしょうね」と金丸さんは言う(写真は本人提供)

ただ個人種目では「ベストレースはない」と言う。オリンピックには3度(08年北京、12年ロンドン、16年リオデジャネイロ)出場しているが、ケガに苦しみ、挑戦したことが裏目に出るなど、悔しい思いしかしていない。「特に世界での勝負を考えると、どうしてもギリギリのところを求めないと戦えない。箸にも棒にもかからなくても無理はしないといけないので、必然的にケガのリスクは高まり、高くなっても追い込まないといけなかった」

20年の競技生活を終え、やり切った気持ちはない。だからこそ、指導者になるという道を金丸祐三さんは選んだ。

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