法政大3年目に改革に着手、3年ぶりの自己新と初の五輪 大阪成蹊大・金丸祐三監督2
前人未到の400m日本選手権11連覇、3度のオリンピック、7度の世界選手権。「金丸ダンス」という言葉は陸上業界を越えて広く知られるようになりました。2021年3月末に引退を発表し、同年4月から大阪成蹊大学女子陸上部のコーチに、翌22年4月には監督に就任。連載「監督として生きる」では、そんな金丸祐三さん(34)の現役時代も含め、4回の連載で紹介します。2回目は大阪高校から法政大学に進んだ時のお話です。
高3で日本選手権優勝、初の世界の舞台へ
大阪高校2年生の時に専門を100m・200mから400mに変え、インターハイ初優勝、国体少年A400mでは45秒89の日本高校新記録(当時)で優勝と、同世代では負けなしのレースが続いた。そして高3で初めて出場した日本選手権では、同05年8月にある世界選手権(フィンランド・ヘルシンキ)で4×400mリレーに入るため、3位以上を目指していた。そんな中、予選で45秒69の日本高校新記録(当時)を出し、優勝の可能性もあると感じた金丸さんは、その勢いのまま初優勝を果たした。
狙い通り、4×400mリレーのメンバーに選ばれ、初の世界の舞台へ。金丸さんにとってはこれが初の海外だった。長時間のフライトは心身ともにこたえ、そもそもともに戦う日本代表は陸上専門誌でよく見る選手ばかり。「いや~、本当に大変だったな。オール芸能人の環境で萎縮してしまって……。ただただ目の前のことに追われて、ほとんど覚えてないんです。大変だったことは覚えているけど、楽しかった、良かった、緊張しかとはまったく記憶にない。すべてが初めてだったので、初めてを通過したという意味では大事な大会だったと思います」。その経験は、翌9月のアジア選手権(韓国・仁川)初優勝にも生きた。
最後のインターハイは200m2位、400m優勝、4×100mリレー優勝、4×400mリレー2位という結果だった。特に大阪高校は伝統的に4×100mリレーが強く、金丸さんも高1の時から仲間と「3年生になったら絶対優勝するぞ」と言い合っていたという。アンカーを務めた金丸さんはゴール後、仲間と喜びを爆発させた。「20年の陸上人生の中で、ベストレースというかうれしかったレースが三つあるんですけど、この4×100mリレーはその一つです」。日本選手権初優勝よりも、アジア選手権初優勝よりも、3年間ともに戦ってきた仲間とつかんだ勝利の喜びが、今も深く胸に刻まれている。
法政大でケガに苦しみ
高校の時と同様、大学に進学する際に金丸さんが重視したのは「自分が一番成長できるベストの場所」だった。多くの大学から声をかけられたが、それまで自分で考えながら量より質を求めた練習をしてきたこともあり、自由度の高そうな法政大が魅力的に見えたという。
ふたを開けてみれば量もある練習ではあったものの、苅部俊二監督は学生たちの自主性を尊重した指導をしてくれた。初めて実家を出ての寮生活も「楽しかったですね。ホームシックに1回もなってない」と振り返る。朝と夜は寮の食事があり、自炊は昼のみ。自分が作る時は栄養バランスが偏っていたこともあったが、寮の食事に助けられたという。
だが、大学生活はケガとの戦いとなった。1年生の時は冬に肉離れ、2年生では8月の世界選手権のレース中に肉離れをしてしまい、無念の棄権。特に世界選手権は地元・大阪で開催され、結果を残すことしか考えていなかった。
「ケガをするというのはもったいない部分ではあるんですけど、運が悪かったと思ったことは一度もなく、本当に自己責任としか思ってない。だからあのケガがなければ……と思うことは1度もなくて、必然に近いようなことだったなと。それだけケガと隣り合わせな練習をしてきました。100%ケガをしないことはありえないので、そこは本当に、0.1%でもケガをしないような対策をして、ケガをした要因を追求して。それでもやっぱりケガはするんですけど、ネガティブに思ったことはないですね」
初の五輪「なぜ自分があっちではないのか」
自分の考えをベースして練習しているだけでは大きな変化はないと感じ、3年目を前にして、苅部監督と相談しながら質とともに量もある練習に取り組んだ。それまではスピードを磨くために100mや200mのメニューをしてきたが、300mや400mに距離を伸ばした。ウェートトレーニングも増やしたが、筋肉が付きやすい体質ゆえに1カ月で体重が一気に2~3kg増えて走りにも鈍さが出たため、元に戻したという。
試行錯誤を繰り返しながら走りも体も無駄な部分をそぎ落とし、5月の静岡国際では45秒21で優勝。3年ぶりに自己ベストをたたき出した。その08年は北京オリンピックがある年だった。だがそのために改革に着手したわけではなく、「世界選手権とオリンピックは全部出るつもりだったので、出場を目指していたわけではなく、そこでどう戦うかということしか考えていなかった」と言い切る。6月の日本選手権では連覇記録を「4」に更新し、400mで自身初のオリンピックを決めた。
だが金丸さんは北京オリンピックの直前にケガをしてしまった。レースにはなんとか間に合わせたが、予選7着で敗退した。この舞台で4×100mリレーは日本男子短距離界初のメダルを獲得(18年に優勝したジャマイカのドーピング違反による失格が確定し、銅メダルから銀メダルに繰り上げとなった)。その瞬間を目の当たりにし、「なぜ自分があっちではないのか」という思いしかなかった。
北京オリンピックには同じく学生アスリートとして竹澤健介さん(当時・早稲田大4年、現・摂南大HC)も5000mと10000mに出場。金丸さんは「多分、竹澤さんは僕のこと好きなんだと思います」と笑いながら言うが、竹澤さんは「多分、金丸が僕のこと好きだと思います」と同じく笑いながら明かした。そんな金丸さんに対し、竹澤さんは「オリンピックの時に感じたのが、どんな環境でもリラックスできて、なんと言うか、そういった図太さを備えた選手だなと思っていました」と当時を振り返る。
法政大では伝統的に結果を残している選手が主将になる。3年生の時に北京オリンピックに出場した金丸さんには、「自分が主将になるんだろうな」という予感があったという。