競技引退後も続くようなバスケの魅力を伝える 名古屋D U15・末広朋也HC4
今回の連載「監督として生きる」は、名古屋ダイヤモンドドルフィンズU15のヘッドコーチで、今年3月のユースチームの全国大会「BリーグU15チャンピオンシップ」でチームを連覇に導いた末広朋也さん(35)です。4回連載の最終回は、東海大学を経てヘッドコーチとして活躍する今についてです。
偶然が重なり、日本代表のビデオスタッフに
東海大男子バスケ部の学生コーチとしてリスタートを切った大学4年時。末広さんがデータ分析への興味を深め、卒業後の進路を決めた大きなきっかけがあった。男子日本代表チームのビデオ撮影スタッフとして、台湾で開催された国際大会に派遣されたことだ。
大学バスケ部のスタッフになって1年足らずの学生が、いきなり代表チームのスタッフに就任――。“大抜擢(ばってき)”という印象を受けるかもしれないが、実際は“偶然だ”。
東海大の陸川章ヘッドコーチがゲストとして招かれたコーチングクリニックに「お金を払ってでもいいから行かせてください」と半ばゴリ押しで参加していた末広さんは、陸川さんに突然たずねられた。「スエ、パスポート持っているか?」。パスポートなら、大学1年生の時に平和学習でハワイに行くために作った。イエスと答えた末広さんに、陸川さんは「代表のビデオスタッフとして台湾に行かないか」と言った。
末広さんはこの出来事の背景を説明する。「本当は別の大学の学生がやる予定だったらしいんですけど、テスト期間が重なってだめになっちゃったらしくて。クリニックの会場で陸さんにたまたま相談がやってきて、そこにたまたま僕がいて、たまたまパスポートを持っていたという流れです。『え、いいんですか!』っていう感じで、喜んで参加しました」
ちなみにこの大会の日程は、地元・沖縄県の教員採用試験と丸かぶりだったが、末広さんは「大学入試の時みたいに2年目でどうにかすればいいや」と、即座に代表への同行を選んだという。自身を「石橋を叩(たた)いて渡る性格」と表現する末広さんだが、これだと思ったことには猛然と突っ走るタイプなのだ。
恩塚享さんから学んだ「相手の予想を上回る仕事」
「地元の宮古島で教員になる」という夢を先送りにしてつかんだチャンスは、末広さんの未来を大きく変えた。大会中の働きぶりや東海大での活躍が日本バスケットボール協会(JBA)の目に留まり、「男子代表チーム専任のテクニカルスタッフ(分析担当)として働かないか?」というオファーを受けたのだ。
「お話をいただいた時は『そんな大役、僕でいいの?』って、本当にびっくりでした」と振り返る末広さん。責任ある仕事を任されるからには2~3年の腰掛けというわけにはいかない。教員という夢もギリギリまで捨てきれなかったが、最後は「新しいことにチャレンジしてみたい」という意欲が勝り、栄えある男子日本代表チーム・初代テクニカルスタッフに就任した。
今でこそデータや映像資料の需要が高まり、「アナリスト」「ビデオコーディネーター」といった肩書きのスタッフを置くチームが増えてきたが、当時、国内でこのような領域をメインとする人はおらず、もっぱらアシスタントコーチがその他の業務と同時並行で担当するものだった。
大学を卒業したばかりで、目立った経歴がほぼない若者が、未知の職務を担当する。想像しただけで吐き気がしそうなほど高いハードルを、末広さんは必死にクリアしていった。助けになったのは、当時女子日本代表チームのテクニカルスタッフを務めていた恩塚享さん(現女子日本代表ヘッドコーチ)の言葉だったという。
「求められたこと、必要なことをやるのも大事だけど、相手の予想を上回る仕事をすることも大切だよという言葉です。『こういうことがあとで必要になるかも』『こういうデータを見せた方が選手にとってプラスになりそう』ってことを先回りして用意し、相手に『ありがとう』と言われるようなことを率先してやっていこうということです」
ユニバーシアードでも毎晩プレーを分析
末広さんのこういった心がけの一端がうかがえるエピソードを、陸川さんから聞くことができた。
「私がヘッドコーチ、末広がテクニカルスタッフとして挑んだ2011年のユニバーシアード競技大会で、私と末広は同室で寝泊まりしていました。末広は毎晩、睡眠時間を削って試合映像を見ながらプレーを分析していました。ヘッドフォンをしているので音は漏れないんですが、夜中に『ああもう』とか『何やってるんだ』とか独り言を言うので、こちらはたまったもんじゃない(笑)。でも、頑張っている彼を責めることはできませんでした」
U16、U18、U22、U24、B代表、A代表。すべてのカテゴリーで情報分析を担い、名将たちと語らい、八村塁(ワシントン・ウィザーズ)や渡邊雄太(トロント・ラプターズ)ら多くの若き才能たちの成長を見守り、いくつかの世界大会を経験した。そして、末広さんの頭には新天地が思い浮かんでいた。「コーチとして挑戦したい」
在職期間、7年。30歳を迎える節目の年に末広さんはJBAを離れ、18年に名古屋D U15チームの初代ヘッドコーチに就任した。
バスケの魅力を伝え、いつかは陸川章HCのように
大学入学時はバスケとは無縁な興味を追求し、1年目が終わるころに個人指導のコーチングを学び始め、4年生になってから大学バスケ部の門を叩いた。そして分析と出会い、それを生業にし、今はU15世代の選手たちを育てている。自身のこれまでの歩みを振り返り、末広さんは言う。
「もしかしたら、一つのことを突き詰めて、磨いていくのが正しかったのかもしれません。僕のような紆余曲折(うよきょくせつ)ある人生を『参考にしてみてください』とか『おすすめです』なんてことは言えませんが、やってきたことがすべてつながっていたなという感じはします。不思議ですね。とはいえ今、僕がこうやってバスケに関わっていられている最大の理由は、素晴らしい出会いと幸運に恵まれたからだと思っています」
確かに末広さんが、出会いや偶然に恵まれてきたことは間違いない。ただ、末広さんが手に入れた縁はすべて、待っていたら転がり込んできたものではなく、末広さん自らがアクションを起こして手に入れたものばかりだということは、強調しておきたい。
コーチとして描く目標は、いくつかある。一つはトップチームの即戦力となるような選手、世界の強豪と対等に戦える選手の育成という、ユースチームの指導者らしいもの。もう一つは、教え子たちが彼らの次世代にバトンをつなぐことを願って、バスケの魅力を最大限に伝えるという少しユニークなものだ。
「教え子がバスケの楽しさを伝える存在になってほしいと思っています。プロコーチになって日本一を目指すでも、親として子供にバスケをすすめるでも、何でもいいんです。それは僕がバスケの楽しさやスキルへの向き合い方、ゲームの戦い方を余すことなく伝えられれば叶(かな)えられる夢だと思っています。『バスケの魅力を伝えられているか?』と常に自分に問いかけながら、日々トライ&エラーを繰り返しています」
似たような夢を叶えている指導者がいる。この連載の中で何度も登場している、恩師の陸川さんだ。
「陸さんのような指導者になるのが、僕の最終的な目標です。大学時代、パッパラパーだった僕にいろんな仕事を任せてくれたり、トライさせてくれた陸さんのすごさは、ヘッドコーチになった今だからこそ実感できますし、マネしようと思ってもなかなかできることではないです」
コーチとして独り立ちして、5年目となった。自らの未来を切り開いてくれた恩師の背中を追いかけ、末広さんは“バスケットボール”という大海を深く深く潜っていく。