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連載:監督として生きる

東海大で外部のバスケコーチに、4年目の前に決意 名古屋D U15・末広朋也HC2

東海大進学後に末広さん(左)が選んだのは、東海大バスケ部ではなく、バスケの個別指導教室だった(写真は本人提供)

今回の連載「監督として生きる」は、名古屋ダイヤモンドドルフィンズU15のヘッドコーチで、今年3月のユースチームの全国大会「BリーグU15チャンピオンシップ」でチームを連覇に導いた末広朋也さん(35)です。4回連載の2回目は東海大学に入学してからのお話です。

戦術はチームを強くする、宮古島に来た監督の教え 名古屋D U15・末広朋也HC1

バスケ部には入らず、興味があることに次々とチャレンジ

そもそも、末広さんはバスケに関わりたいために東海大に進学したわけではない。

「兄が関東で就職していたので、関東の大学をいくつか見て回ったんですけど、東海大のキャンパスの雰囲気がすごく良かったんですよ。保健体育の教員免許が取れるし、ビルが立ち並ぶ都会とは違う、のどかな感じがいいなと思ったので、現役時代も浪人時代も東海大しか検討していませんでした」

ちなみに、末広さんが浪人予備校で猛勉強に励んでいた2006年の冬、東海大男子バスケ部は創部初の日本一を達成したのだが、末広さんがそのことを知ったのは入学後だったという。「島(末広さんは高校生まで沖縄・宮古島で育った)にはあまりバスケ情報が入ってこないし、バスケ専門誌も読んでなかったんで、東海大が日本一になったなんて全然知らなかったんですよ(笑)」

かくして入学した末広さんは、大学生活を大いに満喫した。スポーツ系のサークルに入ったり、別の学部の講義をとったり、スポーツ心理学の研究会に所属したり、平和学習でハワイに行ったり……。2年生の時には、地元・宮古島で開催されたトライアスロン大会に最年少で出場し、地元の新聞に取り上げられたそうだ。

兄の薦めで野村克也さんの本と出会い

興味を持ったことに手当り次第飛び込んでいく姿勢は、「朋也」の名付け親でもあるお兄さんの影響だと末広さんは言う。

「僕は元来、石橋を叩(たた)いて渡るような弱気な性格なんです。バスケ部で現役だった時も、失敗したらどうしよう……っていう気持ちが先走って、勝負どころでボールを持ったり、相手のペイントエリアにアタックすることがほとんどないような選手でした。今、選手たちには『リスクを冒してでも自分がやるという気持ちを持ちなさい』と口酸っぱく教えているのに、自分は真逆のことをしていたという(笑)。兄はそんな僕を引っ張ってくれるような人でした。関東の大学を検討したのも、兄が東京で就職していたから。兄がいなかったら沖縄にとどまっていたと思いますし、大学でこれだけいろんなことをやろうとも考えていなかったと思います」

後に末広さんの活路を開くことになるデータ分析への興味も、お兄さんが引き出したものだ。

「兄に薦められて野村克也さん(元プロ野球監督・故人)の本を読んで、科学的な根拠やデータに基づいた指導で、なかなか勝てないチームを変えられると知りました。夢だった『宮古のバスケチームを日本一に』を叶(かな)えるためには、ここが近道だなと直感しました」

エルトラックでバスケコーチに

時系列が前後するが、末広さんは大学1年生の終盤に、バスケコーチとしてのキャリアをスタートさせた。「いろいろなことをやっているうちに、『バスケのコーチングに携わりたい』という意欲が湧いてきたので、研究会の友人から紹介されたエルトラックに入ることにしました」

「エルトラック」とは、プロコーチの鈴木良和さん(現・女子日本代表アシスタントコーチ)が代表を務めるバスケの個別指導教室。末広さんは週に1回、小中学生を対象としたクラスでスキル指導を行うようになった。

エルトラックでバスケコーチのキャリアを始め、改めてバスケの奥深さを感じた(写真は本人提供)

「人にバスケを教えるのってこんなに難しいのか……」。それが、末広さんがコーチ業に対するファーストインプレッションだった。

「良和さんは、フロントチェンジとかチェストパスとか、ただスキルのやり方を教えればいいとは考えていなくて、『スキルを上達させたい』『できないことができるようになりたい』といった子どもたちの望みをコーチが具体化・言語化し、子どもたちの運動機能や感覚といったところにアプローチすることを求める方でした。僕は感覚でプレーするタイプだったので、最初はバスケをロジカルに考えるのがすごく大変でしたし、改めてバスケの奥深さ、うまくなるということの奥深さを感じさせられました」

日本一のチームがこんなに身近にあるんだったら

末広さんには、コーチングキャリアのスタート地点を別の場所に定めることもできた。言わずもがな、東海大男子バスケ部の学生コーチだ。入学時は同部が日本一になったことを知らなかった末広さんといえ、ごく普通に学生生活を送っているうちにやたらと背が高くてゴツい学生の姿はすぐに目に留まったし、同部で学生スタッフをやっているという友人もできた。ただ、それでも末広さんはバスケ部に入るという選択をしなかった。

「僕がチームに入ったとて、日本一のチームに貢献できることなんてないと思ったんです。全国から集まってきた選手に、知識も実績もない自分が何を教えられるんだろうと。今思えば、そもそも学生コーチが教えられることなんてほとんどなくて当然なんですけど、当時の僕は変に“コーチ”という肩書きにとらわれすぎていたんですね」

しかし、エルトラックで指導を重ね、コーチとしての知識や自信を少しずつ備えていった末広さんの視界には次第に、見て見ぬ振りをしていた“もう一つの選択肢”がちらつき始めるようになる。「せっかく日本一のチームがこんなに身近にあるのに、学ばないのはもったいない」。腹が据わった。

大学最後の1年間が始まろうとする春、末広さんはエルトラックをやめ、東海大バスケ部ヘッドコーチを務める陸川章さんの研究室をノックした。

東海大4年目でバスケ部へ、学生コーチの先駆者に 名古屋D U15・末広朋也HC3

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