陸上・駅伝

連載:監督として生きる

自分の成長を信じて大阪高校へ、小塚湖監督「おごるな」 大阪成蹊大・金丸祐三監督1

金丸さんは2021年3月に現役引退を発表し、同年4月から大阪成蹊大女子陸上部の指導をしている(写真は本人提供)

前人未到の400m日本選手権11連覇、3度のオリンピック、7度の世界選手権。「金丸ダンス」という言葉は陸上業界を越えて広く知られるようになりました。2021年3月末に引退を発表し、同年4月から大阪成蹊大学女子陸上部のコーチに、翌22年4月には監督に就任。連載「監督として生きる」では、そんな金丸祐三さん(34)の現役時代も含め、4回の連載で紹介します。初回は陸上との出会いです。

モーリス・グリーンに憧れて

20年の競技生活を振り返ると、やり切った思いはない。ラストレースとなった20年10月の木南記念も、それが最後になるとは金丸さん自身も思っていなかった。「陸上をやってきて良かったな、とかいうようなレベルじゃないです。陸上が人生なので、良かった悪かったよりも僕自身が陸上なので」。自らを“不器用”と話す、金丸さんらしい言葉だった。

大阪で生まれ育った金丸さんが最初に触れたスポーツは、2人の兄がやっていたサッカーだった。ポジションはサイドバック。「あまり技術がない方だったので、相手を止めるんだったらなんとかなるかな、というくらい」と言い、レギュラーになれるかどうかという立ち位置だった。だが50m走では誰にも負けなかった。自分の特技を生かした方がいいのでは、と考えて高槻市立芝谷中学校では陸上を選んだ。

当時は国際グランプリ大阪大会が長居陸上競技場で行われ、金丸さんも世界で活躍する選手たちの走りを目の当たりにした。マイケル・ジョンソンやモーリス・グリーン、伊東浩司さんなどが短距離界で活躍し、レースだけでなくテレビで特集があれば欠かさず見ていたという。また、00年シドニーオリンピックに向けて、飲料メーカーがやっていたモーリス・グリーンのグッズが当たるキャンペーンにも応募したが、「全然当たらなかったですね」と笑って振り返る。サッカーをしていた頃は特に憧れの選手はいなかったが、陸上に関しては強烈に短距離選手への憧れがあった。

中学3年間は100mと200mが専門で、400mは1、2度程度しか試合に出ていない。特に記憶に残っているのが、中3の時に200mで出場した全中だ。部内には1学年上に「当時は雲の上のような存在」だった先輩がいたが、その人でも全中には届かなかった。「自分が全中に出るにはどれだけ頑張らないといけないか、というのを常に考えていました。努力する意欲とか、もっと速くという欲求とか、そういうものの下地ができた時だと思います」。当時の顧問には怒られてばかりだったというが、金丸さんの全中出場を心から喜んでくれた。結果は予選敗退だったが、「全中に出るためのプロセスがいい経験になった」と振り返る。

小塚湖監督「強くなればなるほど謙虚になれ」

全中経験者の金丸さんのもとにはいくつかの高校から誘いがあり、実は「声をかけていただいた中で、一番考えていなかった」のが大阪高校だったという。「強いことは知っていたので、そこで大阪府で3番目くらいの選手が入るよりも、自分がトップでやれるところで大阪高校に挑戦していく方が面白いかなって」。だが通学時間や練習環境などを加味し、結果、自分が一番成長できるベストな場所として大阪高校への進学を決めた。

金丸さんは高校も大学も、自分の直感と考えを重視して進学先を選んだ(撮影・樫山晃生)

中学では自己流で練習していた金丸さんは、高校で一からフォームの改善に取り組んだ。「中学の時は膝(ひざ)を高く上げれば上げるほど速く走れると思ってたので、めちゃくちゃ大きなフォームでした。でも大きなフォームをしてきたことで下地ができたのは経験として大きかったと思うけど」。部内には全国レベルの先輩も多く、日々の練習で競い合ううちにフォームが矯正されていき、その成果が記録に表れ、1年目に国体少年B200mで21秒37(大会新記録)で優勝という結果につながった。

少しずつ結果が出始めた金丸さんに小塚湖(ひろし)監督が言った言葉は「おごるな」だった。「ことあるごとに、何度も『強くなればなるほど謙虚になれ』と言われました。トップの選手になればメディアに注目されたり、メーカーからサポートしてもらえたりするけど、それを当たり前と思うような選手だと将来はないぞ、と。自分でも分かっているつもりだったけど、言われることによって、より謙虚により謙虚にと思えましたね」。高2でインターハイ400mを制した時も、高3で日本選手権400mを制した時も、金丸さんは謙虚な気持ちを持ち続けたという。

「有言実行」のハチマキ

高2から専門種目を400mに変更したが、元々、中学の時から400m寄りの練習をしており、その延長で大阪高校でも自主的に400mの練習に取り組んでいた。部内に100mや200mで強い選手がいたことも、自分に合った種目を考えるきっかけになったという。金丸さんは高1の時からインターハイで4×100mリレーと4×400mリレーに出場。ハチマキには「有言実行」と記されていた。これは1年生の時にリレーメンバーで決めたもので、金丸さんの案ではなかったそうだ。

「有言実行」のハチマキをしていた時、どちらかという金丸さんは「不言実行」を意識していたという(撮影・樫山晃生)

「僕は逆に『不言実行』なタイプでいたかったんですよ。レース後の取材でメディアの方から『まさに有言実行ですね』とよく聞かれて、『そうですね』と答えてはいましたが(笑)。でも、スペシャルな選手になるには人ができないことをクリアしていかないといけないと思っていたので、後付けではありますが、上を目指すには有言実行ができるような選手にならないとな、と思うようになりました」

そんな「スペシャルな選手」への第一歩を、金丸さんは高3の春に踏み出す。

法政大3年目に改革に着手、3年ぶりの自己新と初の五輪 大阪成蹊大・金丸祐三監督2

監督として生きる

in Additionあわせて読みたい