陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

早稲田大OBの蘆塚泰さん 箱根駅伝当日変更で決意、現在は米国公認会計士で世界へ!

早稲田大OBの蘆塚泰さん。米国公認会計士を取得し、現在は新たな分野で挑戦をし続けています(写真はすべて本人提供)

今回の「M高史の陸上まるかじり」は蘆塚泰(あしづか・やすし)さん(35)のお話です。世田谷学園中学校(東京)で全中、ジュニアオリンピック、都道府県駅伝に出場。私、M高史の後輩でよく一緒に走った仲でもあります。國學院久我山高校(東京)に進み、指定校推薦で早稲田大学へ。4年生で箱根駅伝のエントリーメンバーに入るも、当日交代で出走できませんでした。現在は米国公認会計士を取得し、海外を拠点に会計のフィールドで輝いています。

中学生から30km走!

東京都出身の蘆塚さんは、世田谷学園中学校で陸上を始めました。蘆塚さんが入学時、M高史は中学3年生でした。仮入部の時から走りのセンス、真面目でストイックな性格から絶対に向いていると確信。他の部活も見学していたという話も聞いていたので、陸上部に入ってもらえないか熱心に声をかけていたのが懐かしいです(笑)。

世田谷学園は中高一貫のため、僕が高校生になってからも蘆塚さんが中学3年生になるまで、毎日のように一緒に走っていました。特に起伏や不整地でのトレーニングをよく取り入れ、高尾山での山走り、今で言うところのトレイルランニングを2人で定期的にやっていました。

蘆塚さんによると、「中学1年の時から高尾から陣馬山往復の約30kmを一緒に走っていましたね(笑)」と! 「自分の中では知識がまったくない状態でしたので、三上さん(M高史の本名)に言われてそれが正しいと思ってやっていたら、どんどん記録も伸びていったので、とにかく楽しく過ごせましたね!」。部活がフリーの日には山にこもって30km走をしたり、雑誌「ランナーズ」や浅井えり子さんの影響を受けて2~3時間LSDをしたり、とんでもないトレーニングを2人でこなしていました(笑)。自由に思いきって練習をさせてもらえた共通の恩師・山本弘先生に感謝です。

そんな特訓の成果もあってか(?)、蘆塚さんは急成長を遂げていきました。中学1年生、2年生と東京都の大会で入賞。さらに、3年生の7月の東京都中学総体では予選から全力で走り、3000m9分05秒87で当時の全中標準(9分07秒00)を突破。先生から「今日は涼しいから予選から記録を狙ってみない?」とアドバイスを受けて、1人で押し切ったレースでした。「山本先生のあの時の一言は、今でも覚えています。あの一言がなければ全国大会出場を決められなかったと思いますし、ここまで陸上を続けられなかったかもしれません」と、その後の陸上人生につながるレースとなりました。

中学3年で全中に出場(左から蘆塚さん、顧問の山本弘先生)

迎えた全中では「今、思うと出ることで満足していましたね。当時は台風で雨風も強く『よしやるぞ』というよりも、会場の雰囲気にのまれていました。周りのウォーミングアップのジョグがとにかく速くて『速くないといけないのかな?』と思ったり(笑)。変な気を使ってしまった部分がありましたね」。雰囲気にのまれたという全中は予選落ちに終わりました。

3年生のシーズンはジュニアオリンピック、都道府県駅伝にも出場。「すごく陸上を楽しめた3年間でしたし、ストイックに過ごした3年間でした。濃い中学時代でしたね」

M高史にとっても蘆塚さんとの出会いはとても大切なもので、「将来、陸上の指導者になりたい」と思うようになりました。結局、指導ではなく今の道に進みましたが。私が今、部活訪問でたくさんの学校にうかがって、たくさんの学生アスリートの皆さんに自分自身の経験したことをお伝えし、恩返ししたい、という活動の原点となっているのは、蘆塚さんと楽しく駆け抜けた日々かもしれません。

大学卒業後、恩師・山本先生(左から2人目)を囲んで(左端がM高史さん、右から2人目が蘆塚さん)

名門・國學院久我山高校へ

世田谷学園のほとんどの生徒は中学からそのまま高校へ進学しますが、中学で記録が伸びた蘆塚さんは、高校は國學院久我山高校へ進みました。ちなみに、蘆塚さんは中学時代から勉強の成績も良く、文武両道を貫いていました。

國學院久我山では入学早々、疲労から肝硬変、貧血、胃の不調により入院。「マイナスからのスタートでした。そもそもの練習量、質も違いましたし、先輩たちも速くて練習について行くのがいっぱいでした」

高校時代のベストは5000m14分54秒。チームとしても全国高校駅伝(都大路)には3年間届かない悔しい結果となりました。

「高校時代は苦悶(くもん)の3年間でした。駅伝で全国に行ける高校に行きたいと思って進んだのに、結局3年間行けなかったですし、悔しかったですね」。高校でも勉強の成績も良く、指定校推薦で早稲田大学に進学することが決まっていましたが、大学でも競技を続けるか迷っていました。

当時、駒澤大学でマネージャーをしていたM高史ですが、蘆塚さんから相談を受けたのを覚えています。早稲田大学入学を控えたある日、二子玉川でコーヒーを飲みながら、「やらないで後悔するよりやってみよう」と決意し、覚悟を決めました。

早稲田大学で箱根路へ挑戦!

4月、早稲田大学に入学し、競走部から入部許可もおりて、大学での競技生活がスタートしました。ただ、大学でのレベルの高さにとにかく驚いたそうです。「高校でも練習量や質に驚きましたが、高校から大学ではさらに違いましたね」。というのも、蘆塚さんの同級生には、のちに5000mと10000mで北京オリンピック日本代表となる竹澤健介さん、インターハイ1500m日本人トップの高橋和也さん、インターハイ3000mSC優勝の阿久津圭司さんとそうそうたる顔ぶれ。

「最初は同級生を見るだけで満足するくらいでした(笑)。この選手たちと同じグラウンドにいるというだけで興奮でした」。そんな環境でスタートした学生生活でしたが、入学時から3年生の頃まではついていくのも厳しい日々が続きました。「自分の容量をオーバーする練習でしたね。30kmの練習では帰りは歩いて帰ったり、途中で離れてしまったりしていました。基礎体力の部分など、だいぶ弱かったと思いますね。ずっとBチームでした」

4年生も故障でスタート。6月、7月に走れるようになってきて最上級生として夏合宿に挑む時、4年目の役割について再度考えたそうです。

「早稲田大学では代々、下のチームから上のチームに上がるような背中を見せるという先輩がいました。それで箱根を走る先輩もいましたし、後輩を叱咤激励(しったげきれい)して引っ張る役目の4年生もいました。自分はどういう役目の4年目になるべきかをもう一度考えたんです。箱根を目指すのを諦めたくなかったですし、Bチームの選手がAチームの選手に勝つことを『Bチームの逆襲』と謳(うた)って、とにかく挑戦してやってみようと思いました」

当時、Bチームは相楽豊コーチ(現・チーム戦略アドバイザー)が指導されていました。「相楽コーチには、ランナーとしてだけでなく、人としても鍛えていただき、そのご指導が今にも生きていると感じています」。育成力に定評のある相楽コーチの指導の下、蘆塚さんも必死で4年生としてBチームを鼓舞しながら走り続けました。

夏合宿以降も必死で走り続け、11月の上尾ハーフでは1時間04分37秒の自己ベストをマーク。11月末から始まる早稲田大学恒例の集中練習では初めて上のチームに合流し、質の高い練習をこなしていきました。

「箱根のメンバーに入るには練習で失敗できないですし、どの練習も気を張ったような状態でしたね」。毎回の練習が試合のような緊張感で臨み、ついに箱根駅伝のエントリーメンバーに登録されました。

16人のメンバーに入ってからも最後の最後まで可能性を信じ、練習に挑み続けた結果、12月29日の区間エントリーでは7区に登録されました。

ただ、1月2日に相楽コーチから「明日、八木で行くから」と告げられたそうです。当時、1年生だった八木勇樹さんと交代することになりました。「『何があるか分からないから準備はしておいて』と言われました。致し方ないと思う反面、箱根を走れずに終わるんだなという悲しさと複雑な思いでしたね」。箱根駅伝当日は選手と同じ宿舎に泊まり、復路の選手の応援にまわりました。この年(第85回大会)は東洋大学と早稲田大学が総合優勝争い。結果的には東洋大学が総合優勝し、早稲田大学は41秒差で総合2位となりました。

どうやったら新しい道を切り開いていけますか? 西村菜那子×八木勇樹対談(上)

「総合2位の悔しさと自分が走れなかった悔しさとダブルできた感じですね」。ただ、箱根駅伝が終わって閉会式に向かうバスの中、蘆塚さんはある決意をしたのでした。「箱根が2位だったことも、箱根を走れなかったことも、もう(過去のことは)変わりません。この経験がその後の人生に生きたよねっていう人生を過ごしたいと思ったんです。大学生活を振り返ると、あの時こうしておけば良かったと思うことがあったので、大学を卒業してからは、成功してもしなくても、悔いのない選択を悔いのない1日の送り方をして、そういう人生にしていこうと思ったんです」。最後の最後まで挑み続けて、それでも僅(わず)かに届かなかった箱根路。その経験があったからこそ、社会人になってさらに蘆塚さんは後悔のない挑戦を続けていくことになります。

卒業旅行でグアムにて、競走部長距離同期の皆さんと(前列左から2人目が蘆塚さん)

米国公認会計士として世界へ羽ばたく

大学卒業後、社会人になってからも大学時代の同期を中心としてチームを作り、一緒に市民マラソン大会にも出場。「大学の同期の三輪(真之さん)とお互いの赴任地がたまたま石川県で同じだったので、Stylishという石川県の陸上チームでよく一緒に走っていました。Stylishには当時、他にも法政大学で箱根駅伝を走った齋藤(雄太郎さん)やStylish設立者の1人である金丸(聡寛さん)といった選手がいて、土曜日午前中に練習して、夜飲みに行くということを繰り返していました。今思い返してもいい思い出です。仲間との出会い、大学の同期、陸上を通じて知り合った繋(つな)がりというのは、社会に出てからの人の繋がりよりも強い気がしますね」。楽しみながらも一緒に練習して大会に出るという、市民ランナーとしての楽しみも見出していました。

目標は80歳でもサブ3! 早稲田大で箱根を走った三輪真之さんの「下克上」!
社会人になってからも市民マラソン大会に出場(前列右から2人目が蘆塚さん、同級生の三輪さんは前列右端、後列右から4人目が斎藤さん、前列右から3人目が金丸さん)

大学の時に「後悔のない挑戦をする」と決意した蘆塚さんは、仕事においても果敢に挑み続けました。米国公認会計士の試験に挑戦し、見事に合格。「会計の分野でいろんな世界を見たいですし、チャレンジをしていきたいですね。会計は企業が存在すれば必要になってきます。共通言語の英語と、企業の共通言語である会計、この二つを兼ね備えていきたいです」。大手企業を退職し、マレーシアを拠点に活躍しています。現在は、会計・税務・給与計算の他にも、国際税務アドバイスやビザ・ライセンス申請サポートなど幅広くサービス提供する企業に所属しており、日々成長を実感しているそうです。

「マレーシアでは、イスラム教・ヒンドゥー教・仏教などの複数の宗教や多様な文化があるからか、寛容な方々が多く、優しくて真面目なマレーシア人スタッフと協力して仕事をしています」と、忙しいながらも充実ぶりがうかがえます。

「あくまでも資格自体はパスポートというイメージです。それを取ったからものすごい何かができるというわけではありません。その資格を使って、世界の色々な場所で質の高いサービスを提供できる人材になるのが目標です。もちろん、家族の事情でできること、できないこともあり、マレーシアに来たのは妻の協力なしでは叶(かな)えられなかったので、次は妻の希望も叶えられたらいいなとも思っています」と、新たなフィールドで新たなビジョンを描いています。

目標に打ち込めるのも奥様の協力があってこそ、と蘆塚さんは感謝して挑戦し続けています

マレーシアでも時間を見つけてランニングを続けています。「日中は暑くてなかなか走れないので、屋外を走る場合は、朝か夜になります。今、所属しているマレーシアのランニングチーム『走馬会』では、朝7時前くらいに集まって、走っています」。蘆塚さんも定期的に参加しているそうです。

マレーシアのランニングチーム「走馬会」の皆さんと(前列左から2人目が蘆塚さん)

「とにかく悔いの残らないようにチャレンジすることですね。成功するかどうかは分からないですが、成功しなかったとしても『あの時の決断に悔いがない人生』と思えるように、中学から大学までやってきた陸上で得た教訓をうまく生かせたらと思っています」。中学の後輩が世界に羽ばたいて現状打破し続けている姿に元気や勇気をもらえますし、これからも蘆塚さんの悔いのない挑戦を応援していきたいと思います!

M高史の陸上まるかじり

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