陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

中大OB石本文人さん、中高で記録を塗り替え箱根優勝 笑顔があふれるマラソン大会を

現役時代、数多くの競技実績を積み上げられた石本文人さん。現在は「たまねぎリレーマラソン」をはじめマラソン大会の主催・運営をされています(写真はすべて本人提供)

今回の「M高史の陸上まるかじり」は石本文人(ふみひと)さん(45)のお話です。神戸市立横尾中学3年生の時に3000mで8分31秒43の中学新記録(当時)を樹立し、全中とジュニアオリンピックで全国制覇。西脇工業高校(兵庫)3年生の時には全国高校駅伝(都大路)で当時の高校最高記録を樹立して優勝。中央大学では1年生で箱根駅伝総合優勝にも貢献しました。実業団とサラリーマンを経て、お笑い芸人に転身後、現在はTeam ZERO代表として「たまねぎリレーマラソン」などマラソン大会を主催・運営しています。

ライバルと切磋琢磨して中学新で全国制覇

兵庫県出身の石本さん。小学生の頃はサッカーのクラブチームに入っていました。「有名なクラブチームですごい人数でしたね。サッカーで目立つよりも、年に1回あるサッカーチームのマラソン大会で優勝して日の目を見ました」。走る方が得意かもと思った石本さんは中学では陸上部に入りました。

小学生の頃から走るのが得意だったそうです

神戸市立横尾中学で早くも頭角を現します。全中では2年1500mで4位入賞を果たします。当時は学年別の種目がありました。

3年生になり、ライバルとの出会いでさらに石本さんは急成長を遂げました。「同じ学年に渡邉真一くんという選手がいて、近畿大会でものすごい走りをしていました。ものすごい勢いで全然追いつけなくて、負けて悔しかったのを覚えています。全中では彼に食らいついていくぞと闘争心がメラメラ燃えていましたね」。迎えた全中では渡邉さんについていき、ラストに競り勝って8分39秒28の自己ベストで初の全国制覇(大会新記録)を果たします。それまで3000mは8分55秒がベストだった石本さんでしたが、大舞台で一気にタイムも縮めての優勝でした。

さらにジュニアオリンピックでは再び渡邉さんと競り合い、石本さんは8分31秒43の中学新記録(当時)で、全中に続いて優勝を飾りました。

「中学時代、3000mを8分40秒台で走ったことはなくて、8分50秒を切ったのは全中とジュニアオリンピックの2回だけです(笑)。近畿大会の渡邉くんの走りが衝撃的だったので、記録を出せたのは彼のおかげですね!」。その後、大学、実業団でも競技を続け、実業団の指導者も務められた渡邉さんとは今でも仲がいいそうです。

中学時代は3000m中学新記録樹立、全中とジュニアオリンピックで優勝を飾りました(先頭が石本さん)

2度の都大路優勝と高校最高記録

高校は西脇工業高校へ。「兵庫を制する者は全国を制す」と言われるほどで、西脇工業高校と報徳学園高校が兵庫県大会からしのぎを削り、どちらかが都大路も制するほど実力が拮抗するライバル関係でした。

高校入学後は当時ご指導されていた渡辺公二先生のご自宅で下宿生活がスタート。「1階に先生ご家族、2階に自分たちが生活するという環境でした」。中学ではなかった朝練習も当時は驚きの内容でした。「下宿組で5時半に起床してまず朝練をやるのですが、朝食をとって学校に行って7時半からもう1回チームの朝練がありました! 朝練って2回やるんかいって(笑)。朝練のおかわりかって思わずツッコミましたね(笑)」。走る距離はそこまで長くなかったと石本さんはお話されていましたが、当時の朝練おかわりに心身ともに鍛えられたそうです。

授業を終えて、練習して部屋に戻ってからも「テレビもなかったですし、当時は携帯電話もないのでやることがないんです(笑)。そこで、また部屋で筋トレしたり陸上に集中していましたね!」。学校の授業以外は寝ても覚めても陸上という生活でした。

そんなストイックな生活を続けていたこともあってか、石本さんが1年生の時に西脇工業は都大路で全国制覇を成し遂げました。石本さんは2区を走って区間4位とチームの優勝に貢献。中学でも個人で全国制覇をしている石本さんですが、「中学時代、兵庫県は駅伝のレベルも高くて悔しい思いをしてきましたね。(都大路優勝は)やっぱり嬉(うれ)しかったですね!」。駅伝での優勝というのは、また違った喜びがあるんですね!

2年生の都大路では花の1区を走り区間8位、チームは3位となりました。そして迎えた3年生、石本さんは個人でもインターハイ5000mで2位とトラックで実績を残し、同級生にはのちの世界陸上マラソン日本代表にもなる小島忠幸さんをはじめ実力者が揃(そろ)い、2年ぶりの都大路優勝が期待されていました。

インターハイ5000m2位と駅伝だけでなくトラックでも活躍(先頭が石本さん)

ところが、兵庫県大会では思わぬブレーキが続き、ライバルの報徳学園にまさかの敗北を喫したのです。この年は記念大会で西脇工業は近畿大会で出場権を勝ち取り、都大路に駒を進めました。迎えた都大路では、1区を務めた石本さんが区間5位と好スタートを切り、その後は首位を独走。2時間03分21秒と当時の高校最高記録を樹立して優勝を飾りました。

「今、思うと県大会で負けたのが良かったのかもしれません。県大会はブレーキもあって自滅してしまいました。ライバルがいたとしても、まずは自分たちの走りを丁寧にすることが大事だなと。あとは故障をしない、風邪をひかないということをより丁寧にやっていきましたね」。県大会での敗戦がむしろ手綱を引き締め、基本を見つめ直す機会となったそうです。

余談ですが、西脇工業が近畿枠で出場したことにより、同じく近畿枠で出場を目指していた洛南高校(京都)はこの年、都大路に行くことができませんでした。「近畿では報徳学園よりも洛南は勝っていたんです。当時は悔しかったはずなのに、今、自分が主催している大会に洛南高校のOBや 同級生がチームを組んで出てくれたんです。『石本が大会やるなら出るよ』と言ってくれました。そういった歴史があったのに嬉しかったですし、感動しましたね! 気持ちのいい関係だな、清々(すがすが)しい世界だなと思いました」。当時はライバル校同士であっても、陸上を本気でやってきた同士、仲間なんですね!

県大会でまさかの2位になってから、記念大会の近畿枠で出場を勝ち取り、都大路では高校最高記録更新!(前列左から2人目が石本さん)

中大1年生の時に箱根総合優勝

高校卒業後は中央大学へ。当時、中大名物の南平寮へ入寮しました。「当時は他の部活もみんな一緒に生活していました。中大名物の『立って入る風呂』は首まで浸(つ)かれるんですよ! 最初は困惑しますが、徐々に慣れてきますね。相撲部、バレー部、バスケ部もいて、とにかく体格が違うんです(笑)。すごい世界に来たなと圧倒されますよね。1年生の頃は隅の方で申し訳なさそうに入浴してました(笑)」。たくさんの部活で大所帯で生活していたため、お風呂も座って入るのではなく立って入るという、当時の寮生活のエピソードも教えていただきました。

競技の方では、石本さんは1年生の全日本大学駅伝でいきなり3区区間賞を獲得。チームに勢いをつける走りとなりました。中央大学は最終8区の終盤まで首位を走っていましたが、今も8区の日本人最高記録として残る早稲田大学・渡辺康幸さん(現・住友電工監督)の驚異的な逆転劇により、中央大学は惜しくも2位になりました。

早大・渡辺康幸、“30年に一人”の逸材が駆け抜けた平成

続く箱根駅伝では、スターターの1区を担当。区間11位という走りでしたが、チームは復路で逆転し、総合優勝を飾りました。「箱根で優勝はしましたが、個人としては区間11位なので、本当に皆さんのおかげでした。自分自身の反省点もあって、もうちょっとちゃんと走れたら……という気持ちが強かったですね」と、優勝の嬉しさよりも走りの悔しさの方が印象に残っているそうです。

石本さん(先頭)は1年生の箱根駅伝で1区を任され、チームは総合優勝を成し遂げました

2年生の箱根駅伝では10区で区間7位。3年生の時には故障により1年間を棒に振り、出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝は走れませんでした。「3年生の箱根では初めて付き添いをしましたね。外から見る箱根は新鮮でした。自分が出るとなると集中して猪突猛進(ちょとつもうしん)していたので(笑)。あとから考えたらいい経験になりましたね。3年生の時はチームに貢献できなかった分、4年生では絶対結果を出すんだと臨みました」

迎えた4年生の箱根駅伝では3区区間2位と好走。その時に3区で区間賞だった神奈川大学の野々口修さんは洛南高校OB。現在でも石本さんが主催されている大会にも来てくれています。「故障もありましたが、練習とレースに追われるあっという間の4年間でしたね」と学生時代を振り返られました。

4年目の箱根駅伝では3区区間2位と好走しました

実業団、サラリーマンからのお笑い芸人!?

大学卒業後は積水化学、スズキで競技を続けましたが、「故障が多く、レースに出ては故障というのを繰り返し、26歳で引退しました。坐骨神経痛、右腰のヘルニアなど、力が入らなくて悩まされていましたね」。現役引退後は3年ほどサラリーマンをしていました。その後、石本さんは「お笑い芸人」というまったく畑の違う新しい世界に飛び込みました!

「関西出身ですし、お笑いは身近な存在でしたね。人を笑わせたり楽しませたりするのは昔から好きでした。関西人の血が流れてるんです(笑)。吉本新喜劇のオーディションにチャレンジしたところ、受かりまして、いろんな経験をさせてもらいました」。現在では陸上界からも芸人やYouTuberといったエンタメの世界に飛び込む方も増えてきましたが、石本さんは先陣を切ってエンタメ業界に飛び込まれました!

「『baseよしもと』という舞台が当時あって、千鳥さんや笑い飯さんも出演されていました。そこで新喜劇という劇をやっていました。そこで腕を磨いて『なんばグランド花月』に出るのが目標でしたね。出られた時は嬉しかったですね」。一見すると違う畑に見える陸上とお笑いですが、石本さんはこう分析されます。

「結局、自分が頑張ったり努力したりするのは、陸上でもお笑いでも一緒かなと。それをしないことには前に進めないです。待っていても仕事は来ないですし、自分で開拓するしかないというのはどの世界でも一緒かなと」。陸上もエンタメも経験された先輩の言葉は私、M高史の心にもしっかりと響いています。

たまねぎでランナーさんが笑顔になれるマラソン大会を

その後は、お笑い芸人からランニングトレーナーを経て、現在はTeam ZERO代表として、マラソン大会やイベントの主催・運営をされています。数多くの大会を主催されている中でも目玉となっているのが、「たまねぎリレーマラソン」です。通常のリレーマラソンで襷(たすき)をつなぐ途中、たまねぎエイドが用意されて、時間帯によってたまねぎをゲットできます。

「何かちょっと面白いことをやりたいなと、陸上とエンタメを融合したイベントですね。たまねぎをとる時、みんな笑顔になれるんですよ! たまねぎってそんな力があるんですね! 怒ってとっている人は誰もいないです(笑)」

たまねぎリレーマラソンでは定期的にたまねぎ取り放題の時間が設けられ、ランナーさんも思わず笑顔に!

そもそもなぜ、たまねぎなのでしょうか? 「母が淡路島出身、淡路島在住なんです。母は淡路島で民宿をやっていた時期もあり、自分も手伝っていた時期もありました」。たまねぎの生産で有名な淡路島がルーツなんですね! せっかくなので地元の農家さんからたくさんたまねぎを購入し、参加賞のたまねぎ以外にもたまねぎをランナーさんにお渡しするアイデアとして、偶然たまねぎエイドを発案されたそうです。たまねぎリレーマラソンを始めた10年前から参加者数も増え、全国各地で開催することになりました。

喜ばれるんだと意気込み、本格的に全国展開していこうとした今年、たまねぎの価格が高騰し、石本さんにピンチが訪れました。「ガクッと膝(ひざ)から崩れ落ちましたね(笑)。どうしようって(笑)。ただ、それだからといって、たまねぎエイドや参加賞のたまねぎの数を減らすのだけはやめようと。サービスを下げずに、今までお世話になった方への恩返しと思っていました。参加された方に『たまねぎないじゃん』と思って帰ってほしくないですので!」。ピンチな時こそご縁を大切に、周りの方への恩返し。石本さんは向かい風のような上り坂のような状況でも、笑顔を絶やさず現状打破されたのでした!

陸上界の仲間も応援してくれています(左から時計回りに渡邉真一さん、石本さん、瀬戸智弘さん、森川三歩さん)

たまねぎの価格が高騰していたこともあってか、「今年は特に主婦の方が目の色を変えてグワーっととってましたね(笑)。『家計をっ!』といった勢いでバーゲンセールのようでした(笑)」。タイムや順位よりもたまねぎ獲得数に燃える大会というのも、雰囲気も違って盛り上がりそうですね!

今後の目標について、「47都道府県全部でたまねぎリレーマラソンを開催していきたいですね! 最近はランナーさんよりも農家さんと話をすることの方が多いんです(笑)。いろいろなところで開催して、たくさんの人に喜んでもらえたらというのが目標であり夢ですね!」と、石本さんは楽しそうにお話されました。

たまねぎリレーマラソンには吉本新喜劇からゲスト出演していただくことも(左から石本さん、吉本新喜劇の清水啓之さん)

競技では中学新記録、高校駅伝最高記録、箱根総合優勝と数多くの実績を残し、お笑い芸人も経験。競技とエンタメに本気で取り組んできたからこそ、楽しく面白く走れる舞台を演出する石本文人さんの挑戦は続きます!

M高史の陸上まるかじり

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