オホーツクから世界へ! 子どもたちと駆け続ける国際武道大学OB・金子航太さん
今回の「M高史の陸上まるかじり」は、北海道北見市でオホーツクキッズ代表をされている金子航太さんのお話です。北海道網走向陽高校でインターハイに出場。国際武道大学では日本インカレや日本選手権にも出られました。国際武道大大学院を修了後、大学のコーチを経て、地元でオホーツクキッズを設立。小中学生と駆け回る日々を送っています。
後々の能力開花に必要な、小さい頃の遊び
「あの子たちを見ていると、こっちもやる気をもらえます。どこでも練習環境になります。野性的な感じで自然の中でたくましく育っています。生傷は絶えないですが、子どもたちも慣れています(笑)」と笑う金子さん。
オホーツクキッズの練習場所である東陵公園(北見市)に伺うと、手をつかないと上れないような急斜面もなんのその。子どもたちは笑顔で勢いよくダッシュしていました。大自然に囲まれ、木の根っこにつまずいて転ぶ子もいれば、慣れてきてとっさに転倒を回避する子も。大自然に囲まれた中で鬼ごっこをして、休憩中は虫を追いかけ捕まえて……。練習というよりも遊びの延長であり、最高のトレーニング環境がそこにはありました。そんな金子さんの原点に迫ります。
金子さんは1988年、札幌市で生まれ、稚内の西にある島・礼文島で育ちました。少年時代は海沿いで波消しブロックを跳んだり、野山を走り回ったりして遊び、小学校5年生から陸上を始めました。ただ、最初はリレーメンバーにも入れなかったそうです。
「後に日本選手権に出られるようになったのですが、『小さい頃に遊ぶことって、後々の能力開花に必要なことなんじゃないか』というのが僕の経験であったので、それを今、子どもたちに伝えていきたいですね。野山、木の根っこ、砂利道は、天然のラダーやミニハードルです。規則正しいものじゃないので、小さな筋肉にも刺激が入りますね」。金子さん自身の経験が、現在の指導に生かされています。
中学では陸上部に。「指導者に恵まれた」といいます。「バスケ部出身の顧問の先生だったのですが、すごくいい先生でした。細かい指導はなくて、僕が練習している間、ずっと隣で見てくれているんです。それだけで『頑張らなきゃ』と思いましたね。自分で研究して練習していた経験が今の指導にも生きています」。中学では当時の3種競技A(100m、走り高跳び、砲丸投げ)と走り高跳びで全日本中学陸上にも出場しました。
高校は北海道網走向陽高校へ。「高校で走り高跳びをやる環境がなかったこともあり、走り幅跳びに転向しました。走り高跳びって難しいんですよ。『記録はどう伸ばせばいいんだろう』とわからないこともありました。走り幅跳びなら『足が速くなれば何とかなるだろう』と当時は思っていましたね(笑)」。高校1年で走り幅跳びに転向した金子さんは、そこからわずか半年で国体少年B走り幅跳びで6位入賞を果たしました。
「当時はYouTubeもなかったので、練習方法もわからず、縄跳びをひたすらしていました。足首に重りをつけて、1日1000回跳ぶというのを毎日やっていました。それだけですね(笑)。足も速くなり、身体能力がグッと上がりましたね(笑)」と自分で考えた練習を続けていきました。
高校3年のシーズンは追い風参考記録ながら7m39をマークし、迎えたインターハイ本番。「硬くなってしまいました。田舎出身なので、人が多いだけで目移りしました。自分よりも速い人を見たことなかったので、自分の走りって変なんじゃないかとか、助走の流れが悪いんじゃないかとか、勝手に疑心暗鬼になって潰れて失敗しました」
金子さん自身は、全国の舞台で悔しい結果に終わりました。今、指導している中学生の皆さんに対しては「いつも通りの環境を作ってあげることですね。子どもたちと話をするようにしています。大会だから真面目にとか、質の高い話をするのではなくて『調子どうだ?』といつも通りの話をします。僕が平常心だと子どもも平常心でいてくれます」。全ての経験が現在の指導につながっています。
国際武道大学では、260人の部員をまとめた主将
大学は国際武道大学に。「眞鍋芳明先生(現・中京大学教授)のすぐそばで学ばせていただきました。眞鍋先生ご自身が論文をよく読まれている方で、競技や指導にもエビデンスを求める方でした。そこからちゃんとした研究データを見て、勉強して取り入れるようにしたところ、記録も伸びていきました」。自分の感覚だけでなく、研究データも生かし、競技結果につなげていきました。
「これをしたらこういう結果、データが得られたというのを全部メモ帳にまとめて、分厚いファイルに入れて、頭の中に入れてという感じでした。今も子どもたちに教えながら毎日読んで勉強しています。好きなことなのでやり続けられますね。学び続けないと教える資格がないと思っているので。現状打破ですね(笑)」
大学時代は走り幅跳びで日本インカレに出場しましたが、11番で決勝には届かず。日本選手権にもエントリーされたものの「日本選手権ではアップ場まで行って、ウォーミングアップまではしました。実は当時、骨折していまして……。出場のギリギリまで準備していたのですが、やっぱり出ないようにしようということで本当に直前に欠場しました。悔しいですよね。でも仕方ないなと」。無念の棄権となりました。
また、国際武道大学では主将も務めました。陸上部員だけで全ブロックを合わせると260人という大所帯!
「人数が多かったので、これは甘い考えですけど、みんなが仲良くやっていたらチームに愛着が湧いて強くなるかなと思いました。ちょっと古臭いですけど、毎月、幹部のメンバーや主立ったメンバーで集まって、飲み会をしていました(笑)。部員が260人くらいいたので、何とかみんなを一つにしたいなと思ってやっていました。あの頃の仲間って今でもずっと仲間で、今もうちのチームを助けてもらっています。動画を送ったり、アドバイスをもらったりしています」
指導者としての道を歩み始めた大学院時代
大学院では競技を続けながら、国際武道大学の学生コーチという立場で指導にも携わりました。金子さんのコーチ時代には、陸上専門誌の種目別ランキングで、国際武道大学の走り幅跳びチームは全国2番になりました。
「今でも僕の中で勲章ですし、最高にやる気になりますね。当時、7m70を跳んでいた高田貴明、7m75を跳んでいた橋本尚弥が頑張っていて、記録は2人に劣りますが7m48を跳んでいた山田真也は今の国際武道大学陸上部の跳躍コーチです」。金子さんからバトンを受け継いだ皆さんが、今は指導者としても活躍しているんですね。
「山田に出会った時から大学のレベルの高い指導は山田に任せようと思っていました。自分がオホーツクキッズを作ると決めていたので。僕が小学校、中学校、高校で育てた選手を山田に送って、日本代表としてオリンピックで戦ってもらいたいなと」。山田さんと出会い、オホーツクキッズ設立への金子さんの思いが、行動に移っていくのでした。
「可能性は無限大」オホーツクキッズで描く未来
オホーツクキッズを作る構想は、なんと高校時代からあったそうです。「当時の僕なりに、オホーツクに恩返しするには陸上競技しかないと思っていました。先生方にすごく良くしてもらっていたので、自分が貢献できるのは陸上競技しかないなと」
ゼロからのスタートということに、不安はなかったのでしょうか? 金子さんは爽やかに笑って言いました。「クラブ運営で大変だと思ったことは1回もないです。よくクラブの運営で生活できるのかと心配されますが、ご飯が食べられたら生活できていると思っているので。すごく安易な考えですけど(笑)。苦労したというのは1回もないですね。本当に陸上競技が好きなんですよね! 無限に考えちゃうくらい。日本一幸せだと思います。僕はうちの子たちのことが大好きなので(笑)。親御さんのご理解もありがたいくらいです。僕らスタッフのことを信頼して預けてくださっています」。まさに金子さんにとって天職ですね!
オホーツクキッズを設立して9年弱。ホクレン・ディスタンスチャレンジ北見大会の会場でもある東陵公園が活動拠点です。
「冬は雪で使用できないので市内の体育館を使ったり、北見にある農業法人・豊北うるおいファームさんの使わないビニールハウスを使わせてもらったりしています。ゴム走路を敷くことで冬でもスパイクを履き、砂場で跳べるようにもなりました。本当にありがたいですし、そこからチームも変わりました」
クラスは小学校の低学年と高学年、そして中学生に分かれています。
「小学校低学年は遊び中心です。高学年で少し陸上競技の部分も入ってきます。種目練習をやるときはあえて教えないで、自分たちで道具を準備して自分たちで取り組ませるようにしています。『ここら辺かな』というところで、ポンッとアドバイスをしています」
「子どもたちの『できた!』という達成感を大切にしています。教えることで安易にゲットできちゃうのですが、子どもたちの成果として『これをやったからできた、すごいんだ』って経験をたくさんさせてあげたくて、あえて遠回りの指導をしています」
「中学に入ってからはちょっと細かく指導もしますが、点のような指導ですね。点と点をつないで線にする作業は子どもたちに考えてもらって、成果を自分でゲットしてほしいなと。自分で考える癖をつけてほしいですね。それができれば高校、大学で伸びていきます。競技に真っすぐ取り組んでいますね。純粋さはどこのチームにも負けないと思います」
この夏、愛媛で開催された全日本中学陸上にオホーツクキッズから7人の選手が出場。石田晴大選手が走り幅跳びで4位に入賞するなど躍進しました!
「チームを作ると決めた時から、東京や大阪に負けない、あっと驚かせるようなことをオホーツクから発信していきたいなと。オホーツクだからできたんだと言えるようなチームを作っていきたいですね。将来的にはオホーツクから日本で戦う、オホーツクから世界で戦う選手を輩出したいですね。世界一の選手をオホーツクから出したいです。子どもたちには『可能性は無限大、自分が限界だと思わなければどこまでも行ける。できると思ったらできるよ』といつも言っています」と熱くお話しされました。とびっきり笑顔の子どもたちと、今日も一緒に駆け回ります!