アメフト

日本代表LB菅野洋佑 米国名門大学で積んだ経験を国内へ、ドリームボウルで活躍誓う

日本代表チームは1月13日、吹雪の中で練習した(撮影・北川直樹)

1月21日に国立競技場で、アメリカンフットボールの日本代表と米国IVYリーグ選抜が対戦する「ドリームジャパンボウル2024」がある。昨年は、20-24で日本代表が惜敗。リベンジを期する今年、日本代表には本場米国でフットボールに取り組んだ男がメンバー入りした。シラキュース大学オレンジ出身の菅野洋佑(すがの・ようすけ、25歳)だ。菅野は近年こそ聞く機会が増えた本場での挑戦を、早い時期に実行へ移した。日本の高校を卒業後、米国のコミュニティカレッジを経ずにNCAAディビジョン1所属の大学に進学を果たした最初の日本人だ。異色の経歴を持つ男は、どのようにキャリアを切り開いてきたのか。これから何を目指すのか。

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中学入学時のキャンプでアメフトに出会う

富士通フロンティアーズの本拠地で行われた日本代表選考会。Xリーグ所属のトップ選手に学生の候補者らを加えたメンバーで実戦形式の練習を行い、選考が行われた。その中で、きれいに手入れされたオレンジ色のヘルメットがひときわ目を引いた。ヘルメットからはみ出た長髪と精悍(せいかん)な顔つき、無駄の無い動きに、本場の風格が漂っていた。

菅野はスムーズな動きと理知的なリードで異彩を放っていた。髪を伸ばし始めた理由は「向こうのバーバーでは髪形を再現できなかったからです」(撮影・北川直樹)

菅野は関西学院中学部入学後にフットボールを始めた。きっかけは、全新入生向けに実施される「千刈(せんがり)キャンプ」だ。関学中には各3学年の1クラスを3分割した上で中1から中3までをまとめ、学年を越えて交流する「ハウス制度」と呼ばれる制度がある。千刈キャンプは、このハウスの中3代表2人と新入生15人を組み合わせ、礼拝やメチャビー(泥んこラグビー)といったしきたりを学ぶ。

このときの中3メンバーに、アメフト部ファイターズの齋藤圭吾さん(関学大2019年卒)がいて、菅野の立派な体格に目をつけ「お前はタッチ部(タッチフットボール部)やな!」と誘ってくれた。齋藤さんは兄貴肌で面倒見がよく、部活以外でもよく気にかけてくれた。

齋藤さんは、当時の菅野についてこう話してくれた。「良い意味で自分の意見をハッキリ言えるやつでした。下級生のときから活躍してくれて、同じポジションだったのですごく助かりましたね。プレーが少しがさつだったので『ガサ野』ってあだ名の時期もありましたが……(笑)。米国での映像を見ると洗練されていて、今では憧れを抱いています」

大けが乗り越え、後輩支えた 関学DL齋藤

中学では主にDLとしてプレーし、甲子園ボウルの前座として行われる中学生招待試合を経験。高校に上がると1年の秋からスタメンで出場し、関西大会決勝といった大舞台でも活躍。チームのクリスマスボウル出場に貢献した。高校3年の時は主将も務めた。卒業後はほとんどの学生がそのままエスカレーター式に大学ファイターズへ進む中、菅野は周囲と違った道を選んだ。

2016年、クリスマスボウルで準優勝(後列右端90番が菅野、撮影・朝日新聞社)

米国の高校生と対戦し、挑戦意欲をかき立てられた

「高校3年の夏に米国のペンシルベニア州に遠征して試合をする機会があったんです。行く前は、勝つことはおろか対等に勝負できる相手じゃないと思ってたんですが、実際に試合をしてみると、思ってる以上に『戦えるぞ』と思いまして」。試合は15-17で負けたが、得た収穫は大きかった。菅野はこのときに対戦したチームのメンバーだったグリーンビル高校のコーチから誘いを受けた。

翌年1月にはU-18の日本代表に選ばれ、今度は米国代表と対戦した。「代表レベルの選手にも『勝てる』と感じまして。米国でチャレンジしたいと言う気持ちが固まりました」と菅野は振り返る。

無論そのまま関学大に上がることもできた。そうすれば、日本の学生フットボールとしては最高峰のチームでプレーできる環境が約束されていた。周囲の大人には「米国の高校へ編入すると、向こうで大学受験をする必要がある。よく考えた方が良い」と助言してくれた人もいた。しかし菅野は挑戦する道を選んだ。

3月に関学高を卒業すると、翌年の9月にグリーンビル高校に編入し、現地でフットボールと勉強に励んだ。「もともと関学でも一番苦手だったのが英語だったんですが、フットボールをしたい一心で頑張ったらなんとかなりました」と菅野。現地校の仲間にも恵まれて、不自由のない高校生活を送れたという。

関学高時代に交流戦を戦ったグリーンビル高校へ編入し、1年間プレー。苦手だった英語も必死に学んだ(本人提供)

SFUで活躍が認められ、2年目からアスレチック・スカラシップを取得

高校での1年間を経て、セントフランシス大学(SFU)からトライアウトを経た一般入部ではなく、ロースター登録がほぼ確約されている「プリファード・ウォークオン」での条件を提示され入部した。2年目からは活躍が認められてアスレチック・スカラシップ(スポーツの奨学金)を取得。SFUは1部最上位カテゴリーのFBS所属ではないが、その下のFCSに所属する強豪チーム。菅野はここで本場のフットボールを学んでいく。

高校まではノーズガード(NG)やDEを中心に、最前列のDLでプレーしてきたが、SFUではラインバッカー(LB)やニッケル(N)など、守備陣の中盤から後列へと移っていった。主な理由はサイズの不足だったという。菅野は身長180cmに約100kgと、日本人の中でも決して大きい方ではない。もちろん米国では、日本よりもシビアな評価対象となる。

「どこに行っても、コーチには『背が低い』『足が遅い』『手が短い』とばかり言われました。どのコーチからも第一印象で“使えないヤツ”と思われてる中で、どうアピールするかを必死に考えていました」

アサイメントの理解を深め、フィジカル、ファンダメンタルを徹底的に鍛えて、勝負できることをアピールした。小さいけど強い、足が遅いけど詰め方のコース取りや技術で勝負ができる。これらを毎年アピールしつづけた。渡米時に100kgだったベンチプレスは、160kgを支えるほどまでになった。

SFUでは様々なポジションを経験した。ここでの実績が買われ、FBSに所属するシラキュース大でプレーする道が開けた(本人提供)

未知のポジションでプレーする苦労も経験した。

「大学でLBにコンバートされて、はじめてパスカバーに出ろと言われ、下がり方からゾーンの知識まで何もわからなかったんです。3年になると今度はNなどDBパートに回され、毎日コーチとステップやカバーについてにらめっこで指導してもらいました」。米国では日本のような上下関係はなく、うまい選手がそれぞれ専門的なことを教えてくれたという。例えばカバーはCBの選手が詳しかったので、練習後によく聞きにいった。このときのことを菅野は「毎日が試練」と表現した。

苦労はまだある。米国のカレッジフットボールは、結果が出ないとすぐにコーチがクビになる。これによるあおりも、もろに受けた。

頑張って評価を上げてスタメンまで上り詰めたのに、ディフェンスコーディネーターが変わってしまい、4本目に落とされることが何度かあったという。「日本でプレーしていれば、こんな目には遭わなかっただろうなと思ったこともあります」

そんな時に菅野を支えてくれたのは、フットボールがうまくなれる環境でプレーできていることに対する感謝、愛だという。「そう考えると『日本にいれば』って考えは吹き飛びましたね」。最後はいつも、自分を奮い立たせてやり抜いた。

「SFUではさらに寒く雪が積もっている中でも外で練習していました。シラキュースはインドアだったので、シラキュースに行ったことで自惚(うぬぼ)れてしまったと感じました」(撮影・北川直樹)

FBSのシラキュース大学へステップアップ

2022年にSFUを卒業した。この時にシラキュース大学のコーチから「君を採りたいが、アスレチックのスカラシップは出せない。君のGPA(成績の評点)があれば、アカデミック・スカラシップ(学業面の奨学金)を、学費の半分まで出せるからどうだ?」とオファーをもらった。

米国の大学院は学部と比較すると授業料が格段に安くなるため、日本の大学院よりも安いくらいの授業料で通える見通しがついた。親からも「SFUではスカラシップが出ていたし、シラキュースの学費は日本の大学院に通ったと思って出してあげるよ」と言ってもらった。菅野は「本当に親と周りの大人に恵まれていて、感謝しかないです」と話した。

様々な大人や友人、チームメートに支えられてシラキュース大オレンジへ加入できた(本人提供)

ついに、夢に見てきたトップカンファレンスでのプレーが現実になった。しかし、ここでも試練が立ちはだかる。シラキュース大での1年目が終わった時に、コーチから「You are no gifted in this level.」と言われた。「君はこのレベルでプレーするには能力が足りない」という意味で、決して嫌みで言われたわけではない。「試合に出るために、下のレベルのカンファレンスに属するチームにトランスファー(移籍)したらどうだ?」と勧められたのだ。

菅野思いのコーチは「チームに残って欲しいと思っているが、君を試合に出せないことがつらい。君は「Power 5」(1部上位校のグルーピング)じゃなければ試合に出られる。コネクションでそういうチームを紹介できるから、そこで試合に出て楽しい1年を過ごした方が良いんじゃないか」と続けた。

しかし菅野はこれを受け入れなかった。「僕、小さい時から現実を受け入れられないくらいの負けず嫌いだったんですよ。『ナンボのもんじゃい!』と。こう言われた瞬間に、このコーチから『お前、フィールド出ろ!』と言わせたいと強く思いましたね」。コーチとの関係性は良好だったので、この一言である意味背中を押されたと菅野は言う。

1年目はレッドシャツだったが、ラストイヤーの2年目は試合にも出場した(本人提供)

シラキュース大でのラストイヤー、菅野は試合出場のチャンスをつかんだ。シーズン最後のボウルゲーム、南フロリダ大学との「​​ボカ・ラトン・ボウル」で2タックル1サックの記録を残した。

試合の2週間前にヘッドコーチが解雇され、これに伴って選手も何人か抜けた。2本目だった菅野は、ずっとコーチから「ゲームに出るぞ」と言われてきたという。「シーズンを通してずっと準備ができてました。その中で試合に出してもらい結果を出せたことは、6年間頑張ってきたから神様がチャンスをくれたのかなと。良い形で終われて幸せだなと思いました」

そして、こう続けた。「あれで『やり切った』ではなく、僕の心にもっともっと火をつけてくれました。『お前はまだやれる』って神様が言ってくれてるように感じました」

ラストゲームとなった、南フロリダ大との「​​ボカ・ラトン・ボウル」。2タックル1サックを記録(本人提供)

苦労した食事と週末の遊び

現地での生活はハードだった。毎朝5時30分に起きて6時30分までにテーピングなど練習の用意をすべて済ませる。その後3時間ほどチームミーティングがあり、続けて12時ごろまでフットボールの練習を行う。午後は大学の授業へ行き、終わり次第再びチームミーティング。それが終わると17時から2時間ほどかけてフットボール部の食堂で夕食をとり、帰宅して授業の課題に取り組んで就寝する。

このハードワークを菅野が振り返る。「タイムマネジメントの難しさが一番の壁でした。向こうでカレッジスポーツをするのは、フルタイムジョブをするのと同じだと言われていて、周りの大学生が遊びに行ったりパーティーしたりしている中でやるので、本当に簡単ではないです。僕の場合は、フットボールが遊びみたいな感じだったので大丈夫でしたが(笑)」

米国のカレッジスポーツ選手にはGPAリクワイアメント(一定の成績基準)が必須なので、ここにも留意する必要があるという。

代表のスキームと自分の認識に違いがあったため、パナソニックのジャボリー・ウィリアムスにアドバイスをもらったという(撮影・北川直樹)

学業面に加えて苦労したのが、食事と米国人の週末の遊び方だという。日本で食べる食事とは根本的に味付けが異なるため、最初は全く口に合わなかった。「1年目の途中から『アメリカにいる間は食事には期待しない』って決めていたんですが、3年目くらいから『なんかおいしいぞ……!』って思うようになってしまって(笑)。そうすると今度は太ってきたので、体重管理が大変でした。もう、いくつかのアメリカのフードが恋しいくらいです」

特にお気に入りだったのが、アメリカナイズされた中華料理、“アメリカンチャイニーズ”だという。「チキン&ブロッコリーとか『それ中華やないやん!』ってメニューがたくさんなんですが(笑)、独特の味付けが、他の選手たちにも人気でした」

週末の遊び方については「こんなに踊るパーティーが好きな人種がおるのか!と(笑)。自分は18歳で渡米してるので、日本のクラブにはもちろん行ったことはありませんし、そういうノリが得意ではないので。これは最後まで受け入れられなかったですね」と菅野。練習も勉強も忙しくてそれどころではないとはいえ「それでも距離を置きたかったです」と笑いながら話した。

チームメートは親切にフォローしてくれ、打ち解けた(本人提供)

全ての努力の点と点は、線になってつながる

「僕、高校で英語が欠点(赤点)だったんです。本当にどうしても苦手で。そんな僕でも、環境に身を置いて周りの選手と切磋琢磨(せっさたくま)したら米国でマスターをとることができた。高校当時から思えば、大学院、ましてや米国でなんてありえない話なんです。アメリカのカレッジでサポートが充実していたので、ほぼ毎日チューターや家庭教師などの助けを受けながらでしたが、それでも成し遂げられたことは、僕の人生においてすごい成功体験になりました」

18歳で渡米するまでは、「フットボールさえできれば幸せ」という世界線で生きてきた。しかし、米国で学ぶ過程で価値観は大きくかわったという。

「アスリートとして活動できる時間は短いです。だからこそ、人生を通して考えた時に、学位を取ることや大学の勉強を通して何かを学ぶことは、絶対に将来に生きると思うんです」。フットボールは準備のスポーツ。セカンドキャリアもフットボール同様に準備することは、とても大事だと菅野は言う。

「並行して準備することでフットボールがおろそかになるわけではなく、むしろ全ての努力の点と点は、線になってつながってくると思います」。日本でもこういう価値観が広がってほしいと、力強く話す。

自分の弱みを知り、それをカバーするために試行錯誤をつづけてきた(撮影・北川直樹)

経験やスキルにおごらず「謙虚に俯瞰」

「今後のフットボールのキャリアをプロで続けていく上で、世界に発信できる素晴らしい機会だなと思いました」。今回のドリームジャパンボウル2024については、昨年12月に卒業することが決まっていたため、迷わず応募したという。

日本トップクラスの選手らと数日間練習した感想を聞いた。質問の意図は、菅野の肌感覚から本場トップレベルとの実力差を推しはかることだったが、当人からは斜め上の回答が返ってきた。

「シラキュースではNFLに行くような選手らと練習していたので、正直彼らと比べれば日本の選手はまだまだ敵(かな)わない部分もあるとは思います。でも僕が言いたいのは、今のXリーガーがプレーヤーとしてそんな選手らに敵う敵わないということではなく、彼らのスピードや身体能力は、米国の選手に決して大きく劣ってはいないという事実です。これは今の日本にとってすごい希望だということです」

日本代表クラスの選手らと練習をともにして、様々な希望を感じたという(撮影・北川直樹)

「そういうポテンシャルをもった選手らが、日本の高校や大学に進むのではなく、これからフットボールを学んでいく段階で米国に渡ってプレーするようになれば。現にここにはPower 5で試合に出た僕なんかよりも、ポテンシャルのある日本人選手が、ゴロゴロいるんです。これは、日本にとって希望でしかないんです」

この視点が素晴らしい。自らの経験やスキルにおごることなく、謙虚に俯瞰(ふかん)しながら物事を見て、考えている。一流のチームで研鑽(けんさん)を積んだ選手は、彼のようなマインドを持つのかと感心させられた。

「目立ってたな、カッコよかったな」と言われるようなプレーを

個人の目標は、誰がどう見ても「米国の1部上位校でやってきた選手は違うな」と思うような動きをすること。

「今後XリーグやCFLに挑戦するにしても、IVYリーグを相手に圧倒できたという事実はフィルムにも残るし、とても大事だと思っています。僕自身は無理ですが、日本人がNFLにいくことは可能だと考えているので、ただ勝つだけではなく、圧倒したい」。IVYリーグよりも格上のPower 5で戦ってきた自負があるからこそ、語気が強くなる。

どんな形であれフットボールに関わり続けると決めている(撮影・北川直樹)

菅野の次のステップは、米国企業の仕事をしながら、フットボーラーとしてプレーを続けることだ。「所属チームや形態などは、仕事の条件をすり合わせながら自分の人生が一番豊かになる選択ができればと考えています」。フットボールは人生の大きな軸になっているので、なんらかの形で関わり続ける人生を送りたいという。

1月21日。菅野洋佑は、本場仕込みのプレーと大きなビジョンを胸に暴れる。「フットボールはオフェンスが目立つスポーツですが、『菅野選手目立ってたな、カッコよかったな』と言われるようなプレーをしたいと思ってます」。菅野がチームジャパンで躍動する姿を楽しみに見たい。

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