アメフト

特集:駆け抜けた4years.2024

関西学院大学WR衣笠吉彦 「合わなかった」ファイターズ、最後の立命戦前のパーマ

関学のWR衣笠吉彦はいつも校歌「空の翼」を熱唱した。中学から歌ってきて好きだし、サッカーのイタリア代表が国家を歌い上げる姿に影響を受けたからだそうだ(撮影・篠原大輔)

昨年12月の全日本大学アメリカンフットボール選手権決勝・甲子園ボウルで、関西学院大学ファイターズが史上初の6連覇を達成した。関学のキャプテン、副キャプテンの計4人で、高校までアメフト経験がなかったのは副将のWR(ワイドレシーバー)衣笠吉彦(4年、関西学院)だけだった。「最後のシーズンが深まれば深まるほど、自分はこのチームに合ってなかったと実感した」と言いきる男の4years.を振り返る。

2年生の春に驚異の4秒44

「何で自分はこんなにファイターズに合わなかったんだろう」。チームを引退したあと、衣笠は考えたという。「根本的にチームスポーツが向いてないんです。めっちゃ個人プレーヤーなんで。高校までやってきたのが柔道とサッカーのキーパーです。キーパーって個人競技みたいなもんなんで。大学からアメフト始めてレシーバーになって、3年まで外レシ(アウトサイドのレシーバー)やったんで、目の前のコーナーバック(CB)に勝ちさえすれば、飛んできたボールを捕るだけ。これも個人やなと思ってて、3年までは自分に合ってて楽しいと思ってました。でも4年で副キャプテンになって、オフェンスを自分らで運営していかなあかんと。しかも内レシ(インサイドのレシーバー)に移ったから、自分が相手を釣って味方をフリーにするような役割も増えた。できるんですけど、何か合ってないんですよ。『自分が自分が』っていうタイプなんで。チーム全体のことを考えたりとか、自分の行動がどんな影響を及ぼすかとか、『お前の姿をみんなが見てるぞ』とか。頭では分かってるんですけど、そんなことより『自分がどうしたいか』が勝っちゃうんで。ファイターズの4回生として見せなあかん態度が取れないというか。ほかの同期が入部前から持ってたファイターズへの憧れも僕にはなくて、ただの一部活として入ってきたんで、とにかく合ってなかったですね」。すべてが終わったいま、衣笠はきわめて率直に打ち明ける。

身長179cm、体重90kg。パワーもスピードも兼ね備えたグッドアスリートだった(撮影・北川直樹)

彼の名が日本のフットボール界に知れ渡ったのは、2年生の春だった。光電管計測の40yd走で4秒44と、NFL選手並みのタイムをマークした。私も驚き、春シーズンの試合に行って彼をつかまえ、話を聞いた日を昨日のことのように思い出す。高校まではサッカーのGKで、関学高等部2年のときに全国選手権に出場したと知ってまた驚いた。3年生になるとWRの中でもより速さを求められるアウトサイドレシーバーのスターターとして活躍し、早稲田大学との甲子園ボウルではチーム最多の7キャッチで72ydをゲイン。「Japan U.S. Dream Bowl 2023」には全日本選抜チームの一員として参加した。

奔放な男が副将になったのは意外だった。4年生の春シーズンが終わるとチーム事情からインサイドレシーバーに転向。ただそれからもアウトサイドレシーバーでも、さらにはTE(タイトエンド)でも試合に出られるように準備しなければならなかった。ラストシーズンに華々しい活躍はできなかったが、しっかりと6連覇を支えた一人だったのは間違いない。「みんながほんまにアメフトのことしか考えてない環境におれたのはよかった。全員が一つの方向を見て、自分のタスクのためにすべてを割いて、ほかのことはまったく考えずにやる。その熱量に応えてくれる監督、コーチ陣がいて。こんなにすごい環境も、あれ以上のプレッシャーを受けることも、この先二度とないやろなと思いながらやってました」

3年春の関関戦では「関学に衣笠あり」を印象づける活躍を見せた(撮影・北川直樹)

「自分が一番イケてると思える姿で」

4年秋の立命館大学戦を前に、衣笠は人生初のパーマをあてた。1年間、いや4年間の集大成でもある最大のライバルとの対戦を前に頭を丸める同期もいる中、彼はパーマをあてた。「僕的には自分が一番イケてると思える姿で気合を入れて立命戦に臨みたかった」。同期の仲間たちも「お前やったらそれで気合入れてるって分かるし、ええと思う」と言ったが、大村和輝監督はよしとしなかった。決戦前夜、前泊先の宿舎で衣笠は監督と向き合った。

髪形に込めた思いを語ったが、監督は「それはちゃうやろ。下のもんがどう思うねん」。衣笠は「僕が下でも『気合入れてきたな』と思うだけです」と応じたが、結局、頭を丸めることにした。決戦当日、朝一で宿泊先周辺の理髪店を回ったが、QBハウスに10人も並んでいたこともあり、バスの出発時間を考えて断念した。パーマのままなら副将の衣笠を試合開始時のセレモニーに出さないという話もあったが、主将の海﨑琢(4年、箕面自由学園)が「俺はお前と並びたい」と言ったことで、これまで通りの4人でセレモニーに臨むことになった。立命戦に勝ち、衣笠は頭を丸めた。

1週間あまりの「命」だったパーマ。同期のQB鎌田陽大(中央)、WR鈴木崇与(右)と(撮影・篠原大輔)

全勝優勝のかかった関関戦。関学は13-16で負けた。衣笠たちの学年は1年生からずっと、秋シーズンの学生相手の試合で無敗を誇っていたが、リーグ戦の最後の試合を落とした。関大、立命館との3校同率優勝となり、何とか抽選で関学が全日本大学選手権へ進んだ。ファイターズの選手たちは泣き、抱き合って喜んだ。衣笠は怒っていた。「うれしくなかった。スローガンのDOMINATE(圧倒)とは、ほど遠い試合をしてしまった。完全にオフェンスのせいです」。試合直後にその言葉を聞いて、「らしいな」と思った。

関大戦に負け、抽選で命拾いした直後も衣笠は怒っていた(撮影・北川直樹)

高3の冬、父に連れられて甲子園ボウルへ

関学のおひざ元、兵庫県西宮市内で生まれ育った。父がかつて柔道選手だったこともあり、幼稚園のころに柔道を始め、小6まで続けた。小2のときにサッカーと野球のチームの練習に参加して、面白いと感じたサッカーを始めた。「最初の試合のときにキーパーが1人だけユニホームが違うのを知って、カッコいいなと思いました。目立つじゃないですか。それと『イナズマイレブン』っていうゲームがあって、主人公がキーパーやったんです」。こうして衣笠はGKになった。

中学受験は関学中学部だけを受けて合格した。「1回の受験で大学まで行けるのがいいと思ったし、家から近かったんで」と、小4から塾に通った。中学部のサッカー部でもGKを続け、中3で引退してから高校に進むまでの間だけ、クラブチームに入った。そこでレベルの高い他校の同級生たちに出会い、衣笠は大いに刺激を受けた。「みんなうまくて、短い期間だったけど自分もうまくなれた。あのときの仲間とは、ずっと仲よくしてます」。高校生になって県選抜チームの練習に参加すると、当時のクラブチームのメンバーが勢ぞろいだったという。

高2のときにドイツ遠征で相手とのフィジカルの差を痛感し、筋力トレーニングに目覚めた。この年、50年ぶりの全国高校選手権出場を果たした。レギュラー11人中、GKの衣笠を含めて7人が2年生だった。3年のときは県の準決勝で神戸弘陵に0-1で敗戦。当時の「ゲキサカ」の記事がネット上に残っている。

ムキムキの体、頭の右サイドを刈り上げ、あごひげを蓄えた大人びた風貌でゴールを守る姿に目を奪われた。そして試合後は多くの選手が涙を流す中で、GK衣笠吉彦は凛とした表情で、応援してくれた仲間たちにあいさつ。「まだ泣いてもいい段階で負けたと思っていないので」。涙を流さなかった理由まで高校生離れしていた。

この記事を見つけて笑ってしまった。当たり前だけど、高校のころから衣笠は衣笠だったんだな、と。

高2で全国選手権出場の目標を達成すると、衣笠はもうサッカーに熱くなれなくなってしまっていた。大学でサッカーを続ける選択肢を捨てた。高3の12月、父に連れられて阪神甲子園球場へ。関学と早稲田大学との甲子園ボウルだ。ライトスタンドの上の方から観戦した。苦戦しながらも38-28で勝った姿を見て、とくに何も感じなかったそうだが、「あれ、負けてたら入ってなかったす」。入部は大学1年の夏と遅かった。

4年時の活躍は少なかったが、しっかり当たり、1ydでも前へという姿勢は示した(撮影・北川直樹)

高校を卒業する前にボクシングを始めていた。自宅と同じ西宮市内にある「西岡利晃GYM」に通った。柔道をしていたころから格闘技は大好きで、第25代WBCスーパーバンタム級チャンピオンの西岡さんにミット打ちを受けてもらったときはうれしかった。コロナ禍で授業も少なく、ファイターズに入ってからも数カ月はボクシングと両立していた。どちらを本気でやるのか悩んだが、ボクシングで強くなっていくには始めるのが遅すぎたという思いがあり、アメフトに専念することにした。いま思えば、前島仁や浅浦理友といった高校時代から仲のよかったアメフト部の仲間たちが誘ってくれたのも大きかったという。

「何か変えないと、モチベーションがなくなる」と副将に

大学1年の秋シーズンはパントのカバーチームで試合に出た。学生vs社会人の形としては最後になったライスボウルにも出場。1対1で向き合ったオービックのDB(ディフェンスバック)で関学OBの田中雄大さんに、片手でサイドラインの外まで押し出された。「ほんまにビックリしました。事前にデータを見て体もそんなに大きくないし、スピードは絶対自分が勝ってるし大丈夫やろと思ってたら、全然無理やったっすね」

驚異の4秒44をたたき出した2年生の春からレシーバーでも試合に出られるようになり、秋の関西学生リーグでは2回のキャッチで52ydゲインし、1タッチダウン。初めてスターターの座についた3年生の1年間が最高に楽しかったという。レシーバーの最上級生に「吹田が産んだパリピレシーバー」の異名をとった糸川幹人さんがいた。衣笠と同じく「僕はファイターズには合ってなかった」と語る糸川さんは、自然と後輩たちがプレーしやすい雰囲気を作っていた。「みんな仲よくて、まだ何も責任なかったし、楽しかったですね」と衣笠。

関西学院大WR糸川幹人 「パリピレシーバー」が勝ち続けた裏で学んだ4years.

この年は春の関大戦(7-7)と甲子園ボウル(34-17早稲田大)がとりわけ印象に残っているという。春の関大戦は6キャッチ113yd、甲子園ボウルは7キャッチ72ydと、ともにチームトップのキャッチ数でオフェンスを引っ張った。「関大戦はほとんどスクリーンやったけど、捕ってから足でゲインを稼げた。甲子園は(糸川)幹人が全然あかんかったのもあるんですけど、試合やってて自分が一番信頼されてるっていう実感がエグくて。サードダウンでパスがコールされたらだいたい僕へのパスやし、カバーでチョイスするプレーでもQBから基本的に僕に飛んでくるし。あのときの信頼されてる感じ、覚えてるっすね」

3年の甲子園ボウル。チームの信頼に応えた(撮影・北川直樹)

ラストイヤーを前に副将に手を挙げたのは、何かを変えないと、高校のころのようにモチベーションがなくなってしまうと確信していたからだ。「1年から3回大学日本一になって、しかも3回目は主力として出られたんで、何かを変えないと自分のモチベがゼロになるって分かってたんです。それで副キャプテンになって、実は春の最初のころはランニングバック(RB)もやってました」。同期のRBである前島と池田唯人に一からステップを教えてもらった。レシーバーにけが人が出た関係でWRに戻り、「RB衣笠」は幻となったが、2人に習って、でも一つだけずっとできなかったステップを試合で出せた。春の中央大学戦でボールを捕ったあと、1対1の局面でとっさに出て、相手をかわしてゲインできたそうだ。「あれはうれしかったすねえ」と笑う。

最後の夏合宿はフル稼働だった。負傷者の関係で、衣笠はTEとしてパスプロテクションし、モーションからリードブロッカーにもなり、もちろん本来のレシーバーとして長いルートを走り、ブロックでも体を張った。しかも試合形式の練習は1本目のオフェンス対ディフェンスでやるので強度が高い。「かなりキツかったすけど、俺が抜けたら何もでけへんわと思って入り続けました」

そうやって最後の秋シーズンを迎え、パーマをあて、一転して頭を丸め、4回目の甲子園ボウルまでたどり着いた。前日の4年生ミーティングで一人ひとりが決意表明をした。仲間たちから「小さいころからの憧れのファイターズ」「ずっとアメフトやってきて関学に入って」といった言葉が続き、衣笠は「俺とは全然違う」と再確認したそうだ。周りの同期たちはファイターズらしく生きるとはどういうことかを知っていた。衣笠の決意表明はこうだった。「明日の試合は、もしかしたら高3のときの俺みたいなヤツが見てるかもしれん。だからしょっぱい試合じゃなくてちゃんと勝って、次の世代の夢になれるような試合にしたい」

最後の甲子園ボウルのあと、みんなではしゃいだ(撮影・北川直樹)

関大戦のラストプレー、泥臭く飛び込んだ

私の印象に強く残るシーンがある。敗れた関大戦、3点を追い試合時間残り50秒。ゴール前35ydからの第4ダウン残り25yd。QB鎌田陽大(4年、追手門学院)がWR鈴木崇与(たかとも、4年、箕面自由学園)へ逆転タッチダウン狙いのロングパスを投げた。相手のDBにはじかれてパス失敗。万事休すとなったが、はじかれたボールが地面に着くのが見えながらも、衣笠はボールへ手を伸ばして飛び込んだ。「あれは勝手に体が動きました。タカトモがキャッチできそうになかったんで、走りながら『こっちや、こっちにはじけ!!』って叫んだんです。聞こえてたらしくて、はじこうとしたけどダメで。あれ、僕はアサイメント通りにいったん止まったんですけど、ラストプレーやし、まっすぐ走り込んでたらワンチャンこぼれ球を捕れたかなって、いまは思いますけどね」。何にせよ、あそこで泥臭く飛び込んだ姿に、彼の4years.が詰まっていたんじゃないかと思う。ファイターズの選手らしかった。

関大戦のオフェンス最後のプレーで叫ぶ衣笠(左)。このあと、手が届かないと分かっていながらもボールへ飛び込んだ(撮影・篠原大輔)

自信家の衣笠だが、フットボールを深く知れば知るほど、大村監督にはかなわないという思いを強くしていた。「次元が違います。何もかも分かってる。4年になるときの面談で言われたんです。『日本一になるのなんか目標じゃないねん。なるのは前提として、どういう勝ち方がしたいねん。お前自身がどういう形で貢献して日本一になりたいねん』って。そういう視座の高さで物事に取り組めたのはよかったし、この先どんなプレッシャーを受けても大丈夫やと思えるっすね」

最後の甲子園ボウルが終わり、表彰式が終わり、恒例の写真撮影タイムになった。仲間とひとしきり写真を撮ったあと、衣笠は大村監督を探した。見つけて駆け寄ると、監督がかつて勤務した会社に就職することを初めて伝えた。監督は「えっ、頑張れよ! 社会人でもアメフト続けろよ」と返したそうだ。「初めて大村さんが笑顔でしゃべってくれた。それがなんかうれしかったす」

そう話したときの衣笠の笑顔が、ずっと彼を見てきた私にはうれしかった。

孤高の人、大村監督とのツーショット(本人提供)

in Additionあわせて読みたい