アメフト

関西のアメフト人気を支えた古川明さん 75歳下の後輩に送った最後のはがき

66歳のころの古川明さん。歴史小説と宝塚歌劇を愛した(撮影・朝日新聞社)

3月23日、大阪市内のホテルで「古川明氏を偲ぶ会」が開かれた。国内外から約500人のアメリカンフットボール関係者が集まり、生涯を国内でのアメフトの普及・発展に捧げた故人への思いを新たにした。

「あと3、4年は生きたい」

古川さんは旧制池田中学校(現・大阪府立池田高校)で柔道をしていたが、途中でアメフトに転向。5年で卒業すると、1948年春に新制の関西学院高等部3年に編入した。関西学院大学ではラインの選手として、49年の第4回甲子園ボウルで関学の初出場初優勝を支えた。卒業後は広告学を学ぶという名目でアメリカのデンバー大学に留学し、本場のフットボールを学んだ。帰国後は汽船会社に就職し、56年から現在の関西学生連盟の活動に携わり、審判としてフィールドに立った。70年から2000年までは専務理事として、試合会場の確保や審判の育成、広報体制の強化に全身全霊であたった。関西協会理事長、日本協会理事長も務め、04年に日本アメフト殿堂に入った。そして23年7月30日、肺炎のため92歳で亡くなった。

1949年の第4回甲子園ボウルに初出場で勝利した関西学院大の選手たち。後列12番が古川さん(生前に本人提供)

「偲ぶ会」で長男の古川優(まさる)さんはこんなあいさつをした。ここに古川さんの生きざまが詰まっているので、ほぼ完全に再現する。

「父親は昨年の7月30日に亡くなりました。最後にフットボールの試合を見に行ったのが4月22日、関西学院大学対日本大学の王子スタジアムでの試合でした。あの試合のときもとくに問題はなく、90歳を超えておりますのでそれなりの足元でよたよたと歩いておりましたけども、まあ元気に見てくれました。そのあとのゴールデンウィークのあとから体調が狂って参りまして、食事がのどを通らず、やせていきました。何とか間に合った私の息子、孫が家に遊びに来ると非常に楽しそうにしておりました。それが7月に入って暑くなると体調が悪くなってきて、亡くなる4日前に家で急に体調が悪化しまして、入院しました。ただ入院しても車いすで食事もできていると聞いておりましたので、我々も心配することもなく過ごしておりました。亡くなった当日も車いすで朝食に向かって、その直後に意識を失ってそのままということで、我々も大変驚きまして。本人は、ウチの実家の1階に鍼灸院(しんきゅういん)があるんですけども、その先生にも『あと3、4年は生きたい』と言ってたようです」

古川さんが最後に観戦した昨年4月の関西学院大と日大のゲーム(撮影・北川直樹)

「なぜかと申しますと、新装の王子スタジアムを見たい、それから私の息子が何かスポーツをしているのを見たいと思っていたようですので、それは残念だったとは思うんですけども、まあ92歳まで生きておりまして、今日が親父の誕生日です。生きておれば93歳の誕生日でした。お詫びしたいのは告別式が家族葬だったことです。今日この状況を見まして、いろいろなフットボールの団体の方々、日本中のフットボール関係者の方々、年齢層も若い方から親父に近い方々まで、いろんな方がいらっしゃる。これは父親のこれまでのフットボールに対する愛というか、フットボールと過ごしてきた歴史が、ここに集まっているのではないかと。みなさんが今日ここでいろんな話をされて、一番喜んでるのではないかと思っております」

「偲ぶ会」に集まったみなさんが語り合うのを笑顔で眺めていらっしゃるように感じた(撮影・篠原大輔)

「父親はご存じの通り、生涯アメリカンフットボールを愛し、(関学)ファイターズを愛し、家の中にはたいへんな数のフットボール関連のグッズが転がっております。資料も山のようにあります。非常に紙のコピーが好きでしたんで、同じコピーが3枚、4枚と出てきまして、母親が整理をするのに『なんやこれは』というほどいろんな紙が出てきます。その中にはみなさんの試合のスケジュールとか古川メモと呼ばれている手帳がありまして。大切に保管しておりますので、各チームのOBの方々、歴史を知りたいときはご一報ください(会場爆笑)。紹介させていただきます」

「あと、父親は歴史も大好きでして、歴史の本も山のようにありますので、家に来ていただけましたら、差し上げますので(笑)。私の親父が言ってたことをご存じだと思いますけど、『話は短く、あいさつは短く』ということで、私のあいさつもこのへんにさせていただきますけども、こうして日本各地から、韓国からも来ていただきまして、みなさんが楽しくフットボールの話をされているのが、一番の親父の喜ぶことだと思いますし、フットボールに対する愛情を今後ともみなさんの力でさらにフットボールを発展させていただくことが父親の大変な願いだと思います。本日はありがとうございました」

笑いをまじえながら「偲ぶ会」であいさつした古川優さん(右、撮影・篠原大輔)

鳥内秀晃さん「古川さんが関学の歴史を教えてくれた」

1992年から2020年シーズンまで関学の監督を務めた鳥内秀晃さん(65)は小学生のころ、同じく関学元監督の父・昭人さんに連れられて甲子園ボウルの観戦に行った。そこで父の3学年後輩の古川さんに会った。鳥内さんが大阪府立摂津高校でサッカーに熱中し、1浪して関学に入ると、古川さんから手紙が届いた。「やっと一緒のファミリーになれたな」と書いてあった。それ以降、数えきれないほど古川さんから直筆のはがきやファクスを受け取った。独特の文字が並んでいた。「親父はあんまりしゃべらん人やったから、親父より古川さんから関学の歴史を教えてもらった。日本のアメリカンの歴史な、全部知ってはるからな。だから親父がひとこと、ふたことしか言わんでも分かった」

古川さんの言葉で忘れられないものはと尋ねると、鳥内さんは「名門池田や」と言ってにやりと笑った。確かに古川さんは母校である現在の大阪府立池田高校の話になると必ず、笑顔で「名門池田」と口にした。鳥内さんは古川さんの功績について、こう語った。「古川さんのおかげで審判を含めてフットボールを取り巻く環境がよくなった。試合がスタジアムやなくて学校のグラウンドばっかりでやってたり、審判の整備ができてなかったら、もっと競技人口が少なかったと思うで。ここまで発展できてへん。それとメディアファーストや。書いてもらってナンボ。俺は知り合ったほかの競技のヤツらに言うてんねん。マスコミの対応をちゃんとせなあかんで、って。えらそうにしてる競技団体あるやろ? あかんで」

集まったファイターズのOB・OGたちが部歌「FIGHT ON,KWANSEI」を熱唱(撮影・篠原大輔)

確かに私も古川さんと出会って以来、何度もその話を聞いた。「スポーツの人気を高めるのに必要なのは、いいグラウンド、いい審判、報道の方々を大切にする。この三つですわ」と。確かに関西学連は報道陣を大事にしてくれる。初めて取材に来た記者だと分かると、丁寧に試合観戦の勘どころを教えてくれる。シーズン開幕前やビッグゲームの前には記事作成の助けになる資料を提供してくれる。すべて古川さんのやってきたことが受け継がれている。こんな競技団体はほかにない。

水野彌一さん「古川さんは実に地道にやってこられた」

1970年代後半から、関西学生リーグは孤高の存在だった関学に「たたき上げ軍団」の京都大学が食らいつく構図で人気が高まる。そして91年秋のシーズン、甲子園ボウル出場をかけた関学と京大のプレーオフには西宮スタジアム(当時)に4万人を超える観衆が集まった。古川さんの思いが一つの形になった瞬間だった。アメフトが日本の学生スポーツを代表するような競技になれたのは、古川さんの強すぎるほどの信念と行動力によるところが大きい。

2002年11月の西宮スタジアム。閉鎖前最後の学生アメフトの試合となった関学―立命館戦に多くのファンが詰めかけた(撮影・朝日新聞社)

京大の監督時代に6度の甲子園ボウル制覇を成し遂げた水野彌一さん(83、現・京都両洋高校ヘッドコーチ)は「もう『連盟=古川さん』やったからね。ずっと一緒にやってきたみたいなもんで。古川さんのおかげで我々は非常に充実したフットボールができた。ご自身は関学OBやけど、非常に京大を応援してくれてね。我々のやってた激しいフットボールがお好きやったんでしょうね」と、感謝を口にする。とくに地道な取り組みが印象に残っているという。「なんちゅうてもあの人はね、非常に前向きに、建設的にリーグを運営されたんだけど、何より立派だったのは焦らない。ギャンブル的に一発を狙うようなことはやらなかった。実に地道にやってこられた。一つずつ必要なことを積み上げていった。これが成功の元でしたわな。手っ取り早くスポンサーを見つけるとか、マスコミにうまいこと乗っかるとか、そういうことを全然やってない。非常に立派やと思いますよ」

2022年5月の関学―桜美林戦、古川さんは夫妻で王子スタジアムへ観戦に訪れた(撮影・篠原大輔)

はがきの一番下に記された「大学とスタジアム!」

前述の鳥内さんの言葉にも出てくるように、古川さんは筆まめだった。ことあるごとにフットボール関係者へ手紙やはがき、ファクスを送った。私も数々送っていただいた。記事執筆への感謝であったり、当時私が勤務していた土地にまつわるご自身の思い出であったり、今後のフットボール界への思いであったり。そんな古川さんが最後に筆をとった相手が、75歳下のフットボーラーだった。

いま、関西学院高等部3年でキャプテンの加島禅(かしま・ぜん)さん(18)。WR(ワイドレシーバー)兼DB(ディフェンスバック)として高校フットボール界を代表する選手だ。出会いは2021年12月。加島さんが15歳、古川さんが90歳のとき。加島さんは甲子園ボウルの中学招待試合に関学中学部のキャプテンとして出場した。13-7で立命館宇治中に勝って表彰式が始まると、プレゼンターが古川さんだった。加島さんは顧問の西村径展教諭から「古川さんは日本アメフト界の生き字引みたいな人なんやで」との説明を受け、「すごい人なんや」と思いながら、優勝盾を受け取りに行った。古川さんは盾を手渡しながら「僕も関学OBです。頑張ってね」と言ってくれた。

1週間もしないうちに、加島さんは西村教諭から「ちゃんと返事を書きなさい」と一通の手紙を渡された。古川さんからだった。そこから「75歳差の文通」が始まった。月に1度ほど、古川さんからの便りを受け取って、加島さんが返事を書いた。加島さんは言う。「フットボールというスポーツ自体がめっちゃ好きな人で、すごく僕のことを気にかけてくださってるのが伝わってきました」

古川さんと便りのやりとりをしていた関学高等部3年の加島禅さん。最後のはがきはラミネート加工してある(撮影・篠原大輔)

高1の春の公式戦の日、古川さんが試合会場に来てくれた。当時、加島さんはけがで試合には出られなかった。「けがは大丈夫か」「大丈夫です。でも、もうちょっと時間がかかります」という会話をした。去年の7月、古川さんが24日に書いたはがきを受け取ると、いつも丁寧な字が少し乱れているのに気づいた。王子公園の再整備計画で、王子に関学の新キャンパスと新スタジアムができるのを非常に楽しみにしていた古川さんは、毎回の便りでそれに触れていた。このはがきにも一番下に「大学とスタジアム!」と書いてあった。もちろん加島さんはまだまだやりとりが続くと思って返事を書いた。30日に古川さんは逝った。

古川さんがしたためた最後のはがき。最初に関学高等部の春の関西大会優勝をたたえている

古川さんが亡くなったのを知り、「ショックでした。もっと会っておけばよかったと思いました」と加島さん。高1の春に会ったのが最後になった。加島さんはこのほど、6月にカナダでの国際大会に臨むU20日本代表のトライアウトに参加した。そのきっかけについて、こう話す。「古川さんは日本のアメフトを発展させてくださった方なので、今度は僕が日本のフットボール界に影響を与えられるような選手になれたらいいなと思って応募しました」

古川さんの思いは、75歳下の後輩にしっかりと届いた。

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