「軽やかな最初の一歩」 日本ラグビー125周年特集 巻頭言
日本ラグビーは1899年(明治32年)、慶應で産声を上げた。英語講師のE.B.クラークが、英ケンブリッジ大学でプレー経験のあった田中銀之助とともに指導を始めた。
のちにクラークが部に送った書簡には、ラグビーを紹介したきっかけが以下のようにつづられている。
「彼ら(学生)が晩夏から冬にかけて屋外で何もすることがないように見えたからです。(中略)若者たちは時間と秋のすてきな天気を無駄にして、のらくらしていたのです。私はもし彼らにラグビーへの興味を覚えさせられたなら、午後の自由時間にあんなに退屈しなくてもすむだろうと思いました」(『慶應義塾体育会蹴球部百年史』より)
「日本ラグビーの父」の文章から、牧歌的な雰囲気が漂ってくる。当初は部員も少なく、練習の参加は自由。グラウンドに集まってもメニューは部員たちが気分に合わせて決めていたというから、いわゆる「体育会」の厳しさとは無縁だった。部員たちはクラーク先生の部屋で英国やオーストラリアでの競技の様子を聞きながら、不思議な形のボールが次々とつながる想像を膨らませ、新たな外来スポーツにのめり込んでいった。
それから125年。日本ラグビーは幾多の浮き沈みを繰り返し、おそらく先人たちがイメージもしていなかった地点に到達している。
2015年、ワールドカップで日本代表は優勝経験のある南アフリカを破り、世界に衝撃を与えた。2019年には日本でそのワールドカップが初めて開催され、列島は熱狂に包まれた。日本の活躍は認められ、現在は世界のラグビーを牽引(けんいん)する立場である「ハイパフォーマンス・ユニオン」加入も果たしている。
一方、国内に目を向ければ、競技人口の減少に歯止めがかからず、アマチュアリズムの衰退、選手の大型化に伴うケガの頻発など一筋縄では解決できない課題が多く横たわる。
少子高齢化が進む時代に、1チーム15人で行うラグビーがこの先も今まで通りに生き残っていけるかは甚だ不透明だ。
しかし、ラグビーに育てられ、今も取材者の一人として関わっている人間として、この競技を通して結ばれた絆の数々には紛れもない確信がある。
グラウンド内でぶつかりあう闘争心と、その外で結ばれる友情。一見矛盾に見える二つの感情が奇妙に混ざり合い、連帯を生んでいく。その価値は、トロフィーの数や才能の多寡を超えて、人生を豊かにするものだと信じている。
そもそもの始まりが「秋のすてきな天気を無駄に」しないよう伝えられたスポーツなのだ。その軽やかな精神性はきっと、これからの歴史を紡いでゆく指針となる。