野球

特集:駆け抜けた4years.2025

亜大・大出彩斗(上)高校で「マネージャー入部」直訴、データと出会い武器にするまで

亜細亜大学硬式野球部で4年間マネージャーを務めた大出彩斗(撮影・井上翔太)

高校入学の翌日に「マネージャーをやらせてください」と自らを売り込み、野球に関するデータを学んだことが縁で、東都1部の強豪へ。亜細亜大学の大出彩斗(4年、常総学院)は、そこでチームのブランディングにも興味を持ち、SNSでの発信にも力を入れるようになった。野球を通じてスキルを磨いたストーリーの前編は、データとの出会いやコロナ禍に泣いた最後の夏について。

入学式の翌日、職員室に出向いてグラウンドへ

茨城県西の八千代町出身で、中学時代は軟式野球部。「ポジションは外野だったんですけど、補欠だったんでランナーコーチを一生懸命やってました」と本人が語るように、選手としては決して目立つ存在ではなかった。地元に近い公立高校で野球を続けることをめざしたが、受験に失敗。併願で合格していた私立の土浦日大と常総学院で、2日間ほど考えた末、常総に決めた。この頃から、マネージャーを志していたと振り返る。

中学までは自身もプレーヤーだった(以下すべて本人提供)

「現状ではおそらく、男のマネージャーはいないから『果たして入れてもらえるのか』という不確定要素はありました。でも、選手として不完全燃焼で終わるより、何か一つ『やり切った』と思えるような形で野球に携わりたかったんです」

進学クラスに所属しながら、入学式の翌日に職員室へ出向き「野球部の先生はいますか?」と尋ねてみた。そこで顧問の先生の話も聞いたが、いてもたってもいられず、直接グラウンドに行って、マネージャーとしての入部を直訴することにした。首脳陣からは「何やるんだ?」と最初はいぶかしがられたが、他の女子マネージャーと一緒に、少しずつ業務を体験できるようになっていった。「野球の全校応援の練習が体育館であるんですけど、練習する自分の姿を想像した時に、生徒として応援するだけではなくて、もっと野球部に近い形で携わりたいと思っていました」

1年の夏前になると、当時の佐々木力監督から「お父さんとお母さんにお願いして、ユニホームを買ってもらえ」と言ってもらえた。それまでは自分で用意したジャージーで業務にあたっていたが、練習着とアンダーシャツ、ソックスを買ってもらうと、グラウンド内で練習をサポートすることができるようになった。ただ、最初は何をすればいいのか分からず、ベンチの隅でヘルメットを磨いていた。「結局、ユニホームを着させてもらう前とあまり変わらなかったです」

高校では自ら行動を起こし、マネージャーとなった

「君も一緒に研究しないか?」

先輩や同級生の力を借りながら、自分はチームにどんな貢献ができるのか悩んでいる状況で、顧問の先生からあるとき「データ分析って知ってるか?」と声をかけられた。当時はデータに関する知識がまだ乏しく「こういうのがあるんだ」と思う程度だった。そこから統計学を用いるセイバーメトリクスの文献を調べて印刷したり、アメリカのサイトを翻訳したりして自己流で学んだ。このとき、チームには専用センサーが内蔵されたボールがあり、同学年の菊地竜雅(明治大学4年)や一條力真(東洋大学4年、千葉ロッテマリーンズ)の回転数を計測して「今日は調子が良さそう。この後、もっと良くなりそうだね」などといった話をしていた。

業務は多岐にわたり、紅白戦や練習試合の動画をパソコンに取り込んで、選手にフィードバックするのも大出の仕事になった。練習試合があった夏場のある日、いつものようにパソコンを操作していたら、「何やってるの?」と急に声をかけられた。声の主は当時、亜細亜大学を率いていた生田勉監督だった。常総の顧問が「今、この子はデータの勉強をしているんですよ」と答えると、生田監督は「面白いじゃん!」と興味を持ち始めた。データの重要性やスポーツ科学の最先端の話をしてもらい、「君も一緒に研究しないか?」と誘われた。大出はそこで亜細亜大に「すごく入りたい」と思った。

データ分析の元となる試合の撮影も、自分で行う

2年に進学する際、大出は大きな決断を下した。進学クラスから、野球部や吹奏楽部など部活動に励む生徒たちが多いクラスへの〝転身〟だ。

「高校の時に一番つらかったのは、進学クラスなので授業が長いことなんです。野球部のみんなは午後4時ぐらいから練習なのに、自分は補講が長引くと午後7時ぐらいになってしまう。そこからグラウンドに行くと、何もせずに平日が終わるということが多くて……。野球部のマネージャーがしたいのに、何やってるんだろうという無力感がありました」

2年目から他の部員と一緒に授業を受け、同じ時間帯に練習へ向かえるようになり、「やっと一員になれた」という実感が湧いた。

進学クラスから転身し「やっとチームの一員となった」と実感が湧いた(本人提供)

コロナ禍に泣いた最後の夏

高校3年目は、新型コロナウイルス感染拡大の影響をもろに受けた年だった。4月に初の緊急事態宣言が発令されると、まとまっての練習ができなくなった。

「コロナの期間中は、先生が選手の一人ひとりに目標を書かせていたんです。自分はその目標が書かれたシートの下に、実際の打率や出塁率、長打率。ピッチャーだったら三振率とかを補足で載せてました。ここが自分の活躍場所だと思って」

5月には地方大会を含めた全国高校野球選手権大会の中止が発表された。当時は野球部の3年生全員が図書室で勉強している最中だったと言う。「何となく甲子園はある気がしていたので、みんなぼうぜんとして……。急にぽっかりと心に穴が開いた感覚でした。涙は出てくるけど、どうしていいか分からない。そこから目標がなくなっちゃった感じで、『引退まであとどう過ごしたらいいのか』『この3年間は何だったんだろう』という仲間の姿を見るのは、心が痛かったです」。その後にグラウンドであったノックも、どこか身が入っていないように感じ、さらに悲しさは増した。

大出自身は高校野球を終えた後、1年時の出会いに導かれるように、データ面でチームを支えることをめざして、亜細亜大に進むことを決意した。

【続きはこちら】亜大・大出彩斗(下)データ分析もブランディングも、野球で生きる術とスキルを学んだ

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