関東学院大・内川朝陽 全治9カ月オペ14回からの復活「不可能はないと体現できた」
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大学選手権で6度の優勝を誇る関東大学リーグ戦の名門・関東学院大学ラグビー部。今季、FL由比藤聖(4年、東海大静岡翔洋)とともに共同キャプテンを務めたのが、身長183cm、体重107kgのFL内川朝陽(4年、佐賀工業)だった。2年時にけがの手術から派生する病気を発症し、右足切断や死の危険もあったが、1年で奇跡の復帰を果たした内川。大学4年間を振り返って「楽しいことも、それ以上につらいこともたくさんあった。でも僕の人生にとってかけがえのない一つのピースで、人生に大きな影響をもたらした。後悔しないためにも、これからもラグビーを頑張ろうと思える4年間でした」と笑顔を見せた。
「最後にしっかり爆発」1部残留決める
今季の関東学院大は、2部からの昇格組ながら、3位以内に入って大学選手権へ出場することを目標に掲げていた。ただ、接戦での負けが響き1勝6敗の最下位となり、3シーズン連続となる1部・2部の入れ替え戦に回ってしまった。
12月15日に行われた2部1位の中央大学との入れ替え戦で、「最後にしっかり爆発しよう!」と気迫あふれるプレーを見せたのが、共同キャプテンの内川だった。後半、相手のラインアウトをスチールして大きくゲインし、味方のトライに結びつけるビッグプレーを見せて、49-38の勝利と1部残留に貢献した。
内川は喜ぶそぶりは見せず、「シーズンの最初からもっとピッチにキャプテンとして立ちたかった。1部という先輩たちから受け継いだバトンを後輩たちに引き継ぐという最低限の責任、義務を果たしただけ」と淡々と話した。
だが、2日前に実施した、メンバー外の選手たちとの実戦想定練習を振り返ったときには、「シーズンの最初はあまりまとまりがなかった同期の4年生が、一番体を張ってくれた。中央大以上に激しい、ゲームライクな練習ができたのが勝てた要因」と破顔した。
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高校では主将で花園、大学では1年から公式戦
福岡県出身の内川は、友人に誘われて小学校3年から久留米市のりんどうヤングラガーズで競技を始めると、すぐに楕円(だえん)球の虜(とりこ)になった。高校進学時には全国的強豪の東福岡からも誘われたが、「試合に出られないかも……」と考え、親元を離れて父の故郷でもある佐賀県の佐賀工業に進学した。
佐賀工業では、高校2年から主力FWの一人として「花園」こと全国高校ラグビー大会に出場。2年時は国体準優勝と花園ベスト16を経験し、高校3年時はキャプテンとしてチームを引っ張った。
大学は、佐賀工業の憧れの先輩(4学年上)であるWTB福士萌起(現・日野レッドドルフィンズ、パリオリンピック代表)や、1学年上のSO立川大輝、FL宮上凜らが進学していたことから、「あのジャージーを着て大学選手権に出場して活躍したい!」と自ら関東学院大を選んだ。
「かましてやるぞ」と大学1年時から気合を入れて臨んだが、開幕戦は試合に出ることができず、ピッチの脇で悔し涙を流した。それでもAチームの一員として公式戦4試合に出場を果たすことができた。
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手術後意識が戻るまで3日 足切断・死に至る危機も
大学2年では、右ひざを負傷して春シーズンを棒に振ってしまった。やっと試合に復帰できた8月には、菅平合宿での練習試合で、タックルを受けて右ひざの前十字靱帯(じんたい)を断裂してしまう。腫れが引いた10月に手術を受けることになった。
当初は2日間ほどで退院する予定だった。だが、ここから内川と病との闘いが始まる。「手術後、右足の太ももがパンパンに腫れていて、『ハム(ストリング)が!』と痛くて叫んだ記憶はありますが、その後、ICUで目が覚めたのは3日後でした。お母さんが横にいて、何で泣いているかわからなかったですが慰めていましたね」
内川が患ったのはコンパートメント症候群だった。手術後、何らかの影響で筋肉が膨張し、血管や神経を圧迫する病だった。足を切断せねばならない恐れもあり、筋肉が膨張する際に毒素を出すため、最悪、心臓が止まり死に至る可能性もあったという。「母親は、医者から最悪のケースもあると言われていたみたいです」と内川。
この病はふくらはぎに症状が現れる例が多く、内川のように大腿(だいたい)部に症状が出るのは世界的にも珍しいという。神経の圧迫を軽減するため、右大腿(だいたい)部に縦に40cmほどメスを3カ所入れる緊急手術をして、難を逃れた。ただ、毎日傷を洗浄する際の強烈な痛さで失神することもあり、全身を巡る毒素の影響で40度の熱が1カ月ほど続いた。
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3週間後、まだ寝返りは打てなかったが、足の親指を動かすことができて、足の切断を回避できることが判明。2カ月後には一般病棟に移動して、やっとリハビリを開始することができた。ただ、左大腿からの皮膚移植の手術などもあり、全治までは9カ月ほどかかり、その間に受けたオペは14回にのぼった。
失意のどん底 同期の心遣いに救われた
コンパートメント症候群を患った内川を見て、当初は医者も含めて誰もラグビーに復帰できると思っていなかったという。「足を切断しないといけなかったかもしれないし命のリスクもありましたが、ラグビーをやっていたので体や心臓の強さに恵まれていました。『プレーに復帰できたら奇跡で、もう無理だと思っていたよ』とドクターには言われました」(内川)
失意のどん底にいた内川を支えたのは、同期の友人たちだった。SH小川洋生(関東学院六浦)、FL由比藤の2人がシーズン終盤で試合も重なる中、授業と練習の合間を縫って見舞いに来てくれた。
内川は「本当に元気が出たし、2人に救われました。ペットボトルの飲料や缶詰などをバッグにパンパンにして毎日のように来てくれました。友人のためにも絶対に復帰しようと思いましたし、2人が困っていたら自分にどれだけ大事なことがあったとしても、絶対に助けようと思うくらい感謝しています」とまっすぐに前を向いた。
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テーピンググルグルで復帰「おかえり!」 昇格にも貢献
ラグビーへの復帰は難しいのでは? と周囲から思われている中、立つことから始めて「死ぬ気でリハビリをしました」。そして、大学3年の夏合宿前にラグビー部に戻ってきた。100kgだった体重は85kgまで減少していたという。実戦練習に復帰できたのは、ちょうど手術から1年が経った10月のことだった。
右足にテーピングをグルグルに巻きながら、11月に2部の公式戦に出場。12月の拓殖大学との入れ替え戦にも後半18分から出場し、38-26の勝利と1部昇格に貢献した。この試合は内川が大学生活で最も覚えている試合の一つとなった。
「『おかえり!』というファンからの声が温かかったし、少しでも昇格に貢献できたのも大きかった。また、卒業後はラグビーを続けない4年生が多い中で、『思い残すことなく卒業していける。お前はラグビーを頑張れよ!』と言われました。自分のために復帰したいとばかり思っていましたが、自分自身のためだけにラグビーをやっているのではない、と強く思えた試合でした」
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4年で共同主将に 逆境に負けるなと後輩へエール
そして4年となった今季、新チームとなり、FL由比藤と共同キャプテンに指名された。「(由比藤)聖は視野が広いタイプで、僕は細かいところも指摘しちゃうタイプ。性格はまったく真逆でした」
関東学院大学ラグビー部を取り巻く環境は、今季大きく変化した。一昨年4月に横浜・関内キャンパスが開校したため、練習場と同じキャンパスで授業は行われなくなり、ラグビー部の寮も移転した。ただ練習は、従来と変わらず金沢文庫キャンパスで行っている。
朝、ウェートトレーニングをするためには、自転車で30分ほどかけて練習場へ行き、寮に戻って朝食を食べてから授業に行く。朝4時半に起床している選手もいるという。夕方に授業から戻ったら、ラグビーの練習をして、また自転車で寮に戻るという生活となった。
今季は、内川自身も含めて環境の変化への対応に苦慮したようだ。それでも内川は、「自分たちが置かれている状況や環境は、物足りないものや満足できないものであるかもしれないが、それ以上に恵まれてない状況、環境で練習やトレーニングしている大学は山のようにある。そんな中で、自分たちが何をするか、どのように取り組むかが一番大事。それを徹底できたときにおのずと結果がついてくるということを(後輩たちに)伝えたい」と語気を強めた。
さらに、「僕自身大けがをしても復活できたし、どれだけつらい環境にいてもやり方を間違えなければ不可能なことはない、ということを少しは体現してみせることができたかな。4年生になって、最後のシーズンでパッとすぐにできることばかりではない。4年生を最高潮のコンディションで迎えるためには、1年時からしっかりと積み上げてほしい」と、後輩たちにエールを送った。
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卒業後も競技継続「けがで苦しむ子たちの希望になる」
「これだけ大けがをしてもグラウンドに戻ってプレーできるのを見せたかったので、大学だけで終わらせるわけにはいかない。絶対ラグビーを続けたい!」と強く思っていた内川は、1年前に練習生としてリーグワン・ディビジョン2のNECグリーンロケッツ東葛の練習試合で活躍したことで入団を勝ち取り、1月12日からチームに合流して研鑽(けんさん)を積んでいる。
「まず、タックルやブレークダウンなど裏方の仕事を精度高くしっかりやって、リーグワンの試合に出て活躍したいですね。けがや不慮の事故で悩んでいる、スポーツをやっている子どもたちの目標や希望になることができればと思っています」
大学時代、不撓不屈(ふとうふくつ)の精神でラグビー選手として奇跡の復活を遂げた内川朝陽は、リーグワンでの新たな挑戦に目を輝かせている。
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