ラグビー

特集:駆け抜けた4years.2025

明治大PR倉島昂大 最後の試合でたどり着いた重戦車スクラムの完成形、次世代へ継承

大学で右PRに転向した倉島。4年生最後の試合でスクラムの完成形にたどり着いた(すべて撮影・明大スポーツ新聞部)

「4年間明治でラグビーをやってきて、一番セットプレーがいい試合だった」。全国大学選手権の準決勝・帝京大学戦後、右PR(プロップ)倉島昂大(4年、桐蔭学園)は確かな手応えを感じていた。敗戦してしまったものの、大学トップクラスのスクラムを武器とする帝京大相手に『重戦車』の意地を見せつけた明治大学。その裏には、紫紺のタイトヘッドの長い紆余(うよ)曲折があった。

中高で全国制覇経験も、大学では右PR転向に苦戦

倉島のラグビー人生は順風満帆だった。小学4年生から横浜ラグビースクールでラグビーを始め、中学3年時に太陽生命カップで全国優勝。桐蔭学園に進学すると、2年時にリザーブとして花園優勝を経験。3年時には左PRのスタメンに定着し、帝京大の青木恵斗主将や早稲田大学の佐藤健次主将らとともに花園連覇を成し遂げた。

明大入学当初には、「いろいろな人から『おめでとう』と言われましたし、世間的にも優勝するということはすごいことなのだと思った。優勝した経験を持つ選手は少ないと思うので、これからどういった状況でそれが生かせるかは分からないが、個人としては絶対つながってくると思っている」と語るほど、キャリアは最高潮を迎えていた。

しかし、大学ラグビーはいばらの道だった。桐蔭学園の藤原秀之監督や父親の勧めもあり明大に入学したが、入部直後は、体格面・技術面で大学レベルへの適応に苦戦した。「先輩の体つきが高校とは桁違いで、大人じゃないかというような人ばかりで、考え方も高校ラグビーと比べて二段階くらい上。自分が学年を重ねても、先輩と同じくらいになれるのかという不安が出てくる」と苦悩を吐露していた。

右PRは頭の両側を相手に挟まれるので「タイトヘッド」と呼ばれる。左PRは片側がフリーになるので「ルースヘッド」

さらに大きな壁となったのが、ポジション変更だ。人数の関係で、入学後すぐに慣れ親しんだ左PR(ルースヘッドPR)から右PR(タイトヘッドPR)へ転向。高校まで左PRでプレーしてきた倉島にとって、右PRへのコンバートは、特にスクラムにおいて大きな困難を伴うものだった。

「利き手と同じことを利き手じゃない方の手でやれみたいな感じで、いま1番(左PR)の組み方をしろと言われても多分できないと思う。(スクラムの組み方は)それぐらい体に染みついていくものなので、すぐ1番から3番(右PR)にシフトするのは、明治というレベルの高い環境では本当に難しかった」

花園連覇など輝かしい実績を胸に大学ラグビー界に足を踏み入れた倉島だったが、明大でのキャリアはまさに『ゼロからのスタート』であった。

先輩を見習い、同期と切磋琢磨 セットプレーは武器に

新たなポジションでの挑戦に必死に立ち向かう日々。けがも重なりチームに貢献できない時期が続く中、モチベーションになっていたのは先輩の支えだった。「1、2年生の頃は同じポジションの古田空さん(1学年上)などに助けられ、その支えがあって3番としての組み方をどんどん身につけていくことができた」

さらに、現在はリーグワンで活躍している為房慶次朗(現・クボタスピアーズ船橋・東京ベイ)は、手本ともいえる存在だった。「試合に出るようになった時は、為房さんの背中をずっと追いかけていた。どういうプレーをして、どういう行動をしていたっていうのは見てきたので、今も振り返って思い出すことはありますし、それがモチベーションにもなっています」。紫紺の3番を背負い最前線で戦い続けるその姿は、倉島にとって大きな刺激となっていた。

明治大学PR為房慶次朗 「ハイブリッド重戦車」を体現し創部100周年の日本一を
仲間とモールを組み前進する。セットプレーはいつしか大きな武器になった

また、4年間苦楽をともにしてきた同期とは、高め合うと同時にその活躍に奮い立たせられた。「上のチームでは木戸大士郎(4年、常翔学園)とかがずっと出ていて、(自分と)同じレベルだと田中翔太朗(4年、長崎北陽台)も一緒にスクラムをずっと組んでいて、仲間が頑張る姿を見てきた。4年生になってもみんなそれぞれのグレードで頑張ってくれていて、自分は一番高いグレードで実際に大士郎たちと一緒にプレーできているのは、すごくうれしい」。戦友たちと切磋琢磨(せっさたくま)し、倉島は現状を打破していった。

明治大・木戸大士郎主将 「奪還」めざし、ぶれずに前へ 言葉の重みでチームを率いる

ポジション転向から2年の時を経て、3年時の春の定期戦・同志社大学戦で念願の紫紺のメンバー入りを果たすと、同年は公式戦4試合でメンバー入り。大学選手権の舞台も経験し、大きな飛躍を遂げたシーズンとなった。「今まで経験してきた負けた試合も勝った試合も、全部ひっくるめて自分の力になっている。スクラムやラインアウトモールは、FWとして一番成長した」。セットプレー強化に真っすぐ向き合い続けたことで、いつしかセットプレーは課題から強みへと変化していった。

紫紺のタイトヘッドPR 究めた『一体となる』スクラム

「チームの一員という自覚が湧いてきて、4年生になってからはより責任感を感じるようになった」と最高学年として迎えた今年度は、春シーズンは計3試合でスタメン出場。7月に行われた関東ラグビー協会100周年記念試合にも出場するなど、多くの経験を積んだ。

関東ラグビー協会100周年記念試合にも出場した

しかし、春シーズンを通して明大FW陣はスクラムが弱点として浮き彫りとなった。関東大学対抗戦(対抗戦)のライバル校である早大や帝京大との試合では、スクラムから流れを奪われるシーンが急増。「(出場した)早稲田戦では相手主体で相手の得意なスクラムを組まれてしまった」。スクラムは重要な要素であるだけに、その改善が大きな課題となった。

そこでチームとして意識したのが「FWが一体となるスクラム」だ。「ワンパックやタイトヒットなどにフォーカスして、8人全員の力でスクラムを組むことを目標」として、秋シーズンに向けて夏の菅平合宿などでスクラム強化に打ち込んだ。

すると、関東大学対抗戦では徐々にスクラムに安定性が生まれ、ペナルティーを奪う場面も増えていった。「対抗戦では(試合中に)スクラムで悪いことがあってもすぐに修正して、結果的にいいスクラムを組むことができている」。まさに『重戦車』といえる、明治のスクラムを取り戻しつつあった。

早稲田を相手にスクラムで組み勝ち、感情が爆発する

明大は対抗戦を3位で突破し、選手権では東海大学、天理大学を下して準決勝に駒を進めた。準決勝の対戦相手は、対抗戦で大敗を喫した帝京大。因縁の相手に対し、明大FW陣は圧巻のプレーを見せた。前半にスクラムでペナルティーを奪うと、3連続で相手のコラプシングを誘発。春シーズンの対戦で幾度となく押し負けた帝京大相手に、大きな成長を見せつけた。

しかし、試合には惜敗。大学でラグビーを引退することを決めていた倉島にとって、この試合が最後のゲームとなった。

「自分が任された役割を全うすることができ、一番いいスクラムが組めた。でも完成したところで終わってしまったのは、すごく悔しい」

鍛え上げたスクラムでチームを選手権優勝に導くことはできなかったが、スクラムの急成長は、この先明大の財産となっていくだろう。

「いっぱい強いメンバーがいる」築いた礎は後輩へ

2月9日に行われた卒部試合で、倉島は13年間のラグビー生活に終止符を打った。卒部試合後、倉島は後輩のPR陣に対する思いを伝えてくれた。

「檜山(蒼介、2年、尾道)や山口(匠、2年、流経大柏)、今留学に行っている富田(陸、3年、大阪桐蔭)など、いっぱい強いメンバーがいる。明治のスクラムをもっと強くしていってもらいたい」

倉島の4年間の努力の結晶は、必ず次世代の『重戦車』たちに引き継がれていくだろう。

ラストイヤーの早明戦にスタメン出場。「明治のスクラムをもっと強くしていってもらいたい」と後輩に託した

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