慶應大・渡邊大昭 絶対的エースに訪れた試練のラストイヤー「出会えた仲間こそ財産」

主人公――。彼を語るには、この言葉が最もふさわしい。慶應義塾大学の主将・渡邊大昭(4年、慶應)はバレーボールの圧倒的な実力に加え、仲間からの人望も厚く、まさに「主人公」そのものだった。しかし、物語の主人公は往々にして壁に直面するものだ。渡邊も例外ではなかった。主将として迎えたラストイヤーは、春に2部降格、1部復帰を誓った秋は2部5位。引退試合はけがで途中退場――。待ち受けていた現実は、思い描いていた結末とは程遠いものだった。そんな慶應バレー部の「主人公」は今、何を思い、何を語るのか。
順風満帆なキャリアで大学へ入学
渡邊がバレーボールの世界に足を踏み入れたのは、小学4年生のとき。偶然にも、チームメートには早稲田大学の副将・浅野翼(4年、東北)と日本体育大学のエース・山元快太(3年、仙台商業)がいた。所属した宮城県の「東部メイトJr」は、彼らを擁して創部初の全国大会出場を達成。高崎中時代には、県準優勝と創部初の東北大会出場を果たした。個人としては中学2年時に宮城県選抜として全国ベスト8、3年時には全国ベスト16に加えて、全国中学生バレーボール選抜の12人にも選ばれた。
そんな渡邊はクラブチームの総監督の薦めで、慶應義塾高への進学を決めた。入学後は1年時にインターハイ初出場、2年時には神奈川国体出場と春高ベスト16。主将を務めた3年時は、新型コロナウイルス感染拡大の影響で国体とインターハイが中止になり、春高ベスト16で引退を迎えた。引退試合で最後のトスを打ち切れなかった悔しさと、前主将・島田航希(現・大同特殊鋼知多レッドスター)の誘いが後押しとなり、進学した慶應義塾大でもバレーの道を選んだ。

圧倒的実力・勝負強さに人望 漫画の「主人公」そのもの
渡邊の強みは、なんと言っても圧倒的なパワーを生かしたサーブとスパイクだ。そして、大事な場面で絶対に決める「エースの強さ」がある。
4年間で特に成長したのはサーブ。下級生の頃に、「スパイクも決まらないし、高さもない中で、自分がチームにどうやって貢献しようかと考えたときに、真っ先に思いついたのがサーブだった」という。筋トレに加えて動画を見ながら研究と試行錯誤を重ね、90キロ台だったサーブは最速120キロまで成長。4年時の春季リーグでは、大学トップレベルの選手が集う関東1部で「サーブ賞」に輝いた。春季リーグ・専修大学戦では渡邊の3連続ブレークで流れをつかみ、セットカウント0-2から劇的な大逆転勝利。早慶定期戦では2セットダウンの20-23から渡邊の3連続ブレークで早稲田大に迫り、秋季リーグ・中央学院大学戦では驚異の6連続ブレークを見せた。ここぞという場面で目の前の1点を勝ち取る姿は、漫画の世界から飛び出してきた「主人公」そのものだった。

渡邊を「主人公」たらしめていたのは、バレーボールの実力だけではない。飾らない「人の良さ」で仲間からの人望も厚く、下級生の頃からすでにチームの中心にいた。同期で副将の芳賀祐介(4年、北海道札幌北)は「1年生の頃から、彼が主将になるんだろうなと思っていた」と語る。
主将になってからは、圧倒的なリーダーシップでチームを牽引(けんいん)しながらも、一人ひとりに手を差し伸べ、寄り添う姿勢を忘れなかった。試合の流れが悪いときは必ずコート上に仲間を集め、練習後は同期や後輩と自主練に励み、プレー以外でのコミュニケーションも含めてチームを一つにまとめあげていた。
渡邊が目指したのは、前主将・島田航希のような「みんなの目線に立って、一緒になってチームを創っていく」主将像。どれだけ実力が認められても自分を大きく見せることなく、常に身の丈にあった選手であり続けようとした。

主将となったラストシーズン、結果が出ず苦悩
主将を務めたラストイヤーは、渡邊にとって苦しいシーズンだった。
関東1部で戦った春季リーグは1勝10敗で12位に沈み、入れ替え戦で駒澤大学に敗れて2部に降格。「先輩方が残してくれた1部という舞台を自分たちの代で降格させてしまった」と、強い責任を感じていた。また、春季リーグを終えた頃から脚に痛みがあり、合宿では熱中症に見舞われるなど、身体の不調にも苦しめられた。

「1部最速復帰」を誓った秋季リーグは2部5位と、入れ替え戦にすら届かなかった。バレーボールを始めた小学4年生から大学3年生まで、チームで掲げた最低限の目標は成し遂げてきた渡邊。だからこそ「最後に自分が先頭に立ったシーズンで結果が出なくて、すごくつらかった」と、当時を振り返る。「自分が悪いから勝てないんだ」と一人で抱え込み、練習を休んでしまうこともあった。
それでも渡邊の周りには、彼の悩みを吹き飛ばしてくれるような、温かく頼もしい仲間がいた。特に、副将の芳賀、アナリストの田鹿陽大(4年、慶應)とは「上(の学年)が崩れたらダメだよね」と話し合い、入れ替え戦出場の望みが途絶えた後も「一戦一戦を楽しんで、試合に勝利したい」と懸命に前を向こうとしていた。

「最後の早慶戦」第1セット、骨折で無念の途中退場
「最後はやり切りたいです!」
4年間の最後の舞台となる全日本インカレ。「最後の最後は笑顔で終わりたい」。そう強く願い、脚の不調を抱えながらも、渡邊は仲間とコートに立つことを選んだ。これも何かの巡り合わせか、2回戦の相手は早稲田大だった。会場は春高の舞台であり、渡邊が高校時代に引退を迎えた東京体育館。部員たちはいつもと同じように、ベンチの横で円陣を組む。
「早稲田ぶっ倒すぞ!」。渡邊の力強い掛け声で、この年5度目の早慶戦が幕を開けた。

前年度王者の早稲田大相手に互角の戦いを繰り広げた第1セット。12-14の場面で、後衛の渡邊にトスが上がる。助走をつけ、コート中央で跳躍。そして着地した瞬間、その場に崩れ落ちた。
渡邊は左脚を抱え、苦悶(くもん)の表情でうずくまる。ただならぬ空気に会場は一時騒然。東京体育館に渡邊の悲痛な叫び声が響く。左頸骨(けいこつ)腓骨(ひこつ)骨幹部(左のすねを支える骨)骨折。この1年間、「主将兼エース」という重責を一身に背負い、精神的支柱としてチームを支えてきた渡邊は、想定外の形でコートを後にした。
「あのときの涙はやっぱり、痛みよりも悔しさの方がすごく強かった。組み合わせが決まったときに、最後に早稲田と当たるのは本当に運命だな、神様が最後に(早稲田大に)勝つチャンスをくれたんだなと思って、(早稲田大との)試合に向けてコンディションも整えてきたし、トレーニングも頑張ってきたので。不完全燃焼というか、最後までプレーできなかったのはすごく悔しかったです」
渡邊がコートの外に運び出されると、どことなく動揺を拭えないまま、慶應義塾大は第1セットを19-25で落とす。その後は、コートに残された4年生の芳賀、内田克弥(4年、松江高専)を中心にチーム全員で声を掛け合い、渡邊の分まで健闘を見せるが、0-3で早稲田大に敗北。試合の途中で病院に搬送されていた渡邊は、救急車の中でそのときを迎えた。

バレーボール人生は「仲間に恵まれたおかげ」
負傷による途中退場で引退。そんな現実を受け入れられずにいた渡邊だが、手術後の入院期間にはうれしい出来事もあった。チームの仲間や先輩がお見舞いに来てくれたのだ。
「このチームで本当に良かったな、このチームで愛されていたんだなというのを感じてすごくうれしかった」
渡邊の気持ちの沈みを感じ取って面白い話をしてくれる人がいれば、大量の差し入れを持ってくる人もいた。タコス6人前、チキンナゲット100個、ドーナツ、小魚、牛丼……。「デカいやつ(=芳賀祐介)が太らせようって呼びかけたんですよ(笑)」「ナゲットは12番(=内田克弥)ね」とうれしそうに話してくれた。

渡邊は自身のバレーボール人生を振り返り、「僕は、本当に仲間に恵まれた人間だな」と口にした。幼い頃から未来のスターたちと練習を共にし、縁に恵まれて慶應義塾高へ。高校でも、渡辺大地先生(慶應義塾高バレーボール部部長)との出会いがあり、学業の面では先輩に助けてもらうこともあった。大学入学後は「負けているイメージの方が強いので苦しいことの方が多かったですけれど、優秀で温かい仲間に出会えたことは僕の誇りですし、財産なので。仲間に恵まれて、ここまで続けてこられたなと思います」と話す。
最後の最後まで、渡邊が紡ぐ言葉の中には「仲間」がいた。「けがに見舞われても迅速な対応ができたのは、トレーナーの平山一之心(3年、甲南)、救急車を呼んでくれた学連委員長の山本昌岳(4年、慶應)がいたからで、今こうして松葉杖ですけれど歩けるようになっているので」と、仲間への感謝の言葉が尽きることはなかった。

「唯一無二の大エース」次なる舞台へ
バレーボールの進退を問われた渡邊は、「これ(脚のけが)次第かな。でも(経過は)順調らしい」と答えた。そして「悔いなく戦え」という言葉とともに、自身が果たせなかった「1部復帰」を後輩に託した。
取材に同席した次期主将・山元康生(3年、慶應)から「唯一無二の大エース」という言葉を贈られた渡邊は、「うわ、マジでカッコいい! これはうれしすぎる。ありがとう!」と無邪気な笑顔で喜んでいた。
そんな等身大の姿こそが、周囲に愛される渡邊の魅力だ。13年にわたるバレーボール選手「渡邊大昭」の物語は、ひとまず幕を閉じる。渡邊が歩む未来には、どんな物語が広がっていくのか。

