バレー

連載: プロが語る4years.

日本代表選手と慶應の主将としての葛藤の先に 柳田将洋3

チームを支えようと思っていた柳田(左から2人目)は、逆にチームに支えられていた(写真は本人提供)

輝かしい舞台で躍動するプロアスリートの中には、大学での4years.で花開いた人たちがいます。そんな経験を持つ現役プロや、元プロの方々が大学時代を中心に振り返る連載「プロが語る4years.」。第5弾は男子バレーボール日本代表の主将で、ドイツ1部リーグのユナイテッド・バレーズでプレーしている柳田将洋(27)です。4回の連載の3回目は、慶應義塾大在学中に日本代表に選ばれてからの日々についてです。

将来を考えて進んだ慶應、仲間から受けた刺激 プロバレーボーラー柳田将洋2

代表入りに自分自身が戸惑った

東京でのオリンピック・パラリンピック開催が決まった2013年、大学3年生だった柳田は日本代表候補に選ばれた。高校時代からユース(U18)、ジュニア(U21)代表候補に選ばれたこともあり、大学でも活躍を続けているのだから異論はない。しかし柳田自身は相当に戸惑っていたそうだ。

「何で俺が選ばれたんだろう? とずっと思ってました。同じポジションの人を見渡しても、ヨネさん(米山裕太、現・東レアローズ)の方が守備はうまいし、サーブは越川さん(優、現・ビーチバレー選手)の方がいい。スパイクも(石川)祐希(現・パッラヴォーロ・パドヴァ)の方がいい。じゃあ俺は何だ? ってモヤモヤしてました」

自分がコートに立つためには、同じポジションの選手と比べて秀でた武器がなければならない。じゃあそれは何か。自問自答を繰り返した結果、導き出された答えはサーブだった。14年のアジア大会やワールドリーグにも帯同。ほとんどがピンチサーバーとしての出場だったが、その少ない機会を生かすべく、ジャンプサーブに磨きをかけた。

大学を卒業したらバレーはやってもやらなくてもいい。入学当初はそう思っていたが、刺激し合える仲間と切磋琢磨する日々の中で意識は変わり、卒業後もバレー選手として活躍したいと思うようになった。その気持ちは、日の丸をつけて日本代表として戦う中で次第に大きくなった。

「最初はこの場所で自分の居場所を確立しようと必死でした。でもそうやっていくうちに、自然と目線の先が日本から世界に変わりました」

代表でいっぱいいっぱい、慶應を顧みれなかった

ひとりのバレー選手としては飛躍の時。だがひとりの大学生としてはすべてが晴れやかだったわけではない。代表選手としてさまざまな経験を重ねる一方、柳田は葛藤も重ねていた。

慶應の日々の練習は基本的に選手同士でメニューを考え、強化テーマを掲げて取り組んでいた。もし柳田がいなくても全員で一致団結して戦う姿勢に変わりはないが、その中心にいたのは4年生になり、主将を務めていた柳田だったのだ。

慶應は優勝争いには入れなかったが、柳田がいた4年間は関東1部で戦い続けていた(写真は本人提供)

大学最後の年こそ、春と秋季リーグ戦や東日本インカレ、全日本インカレといったトーナメント戦で結果を残したい。そう思うのはごく普通のことであり、おそらく誰もが抱く目標でもある。だが日本代表に選出されれば、代表合宿期間は代表選手として活動するため、慶應のチームを離れなければならない。いくらメールや電話で連絡を取り合えるとはいえ、日本代表として戦う以上はその場で果たさなければならない役割もあるし、何より戦う以上は負けたくない。

慶應での練習は仲間たちに任せ、自分は代表合宿や国際試合に専念する。大学生のうちに選出された選手は誰もが通る道ではあるが、柳田を欠いたチームはなかなか秋のリーグ戦で勝ち星を挙げられず、慶應は1部の最下位に沈んだ。2部で優勝した大東文化大との入れ替え戦に臨むことになった。

「もっと自分にやるべきことがあったんじゃないかと後悔しました。実際に自分の頭の中では夏場にこういう練習をしようとか、いろんなプランがあったのに、それをきちんと伝えることなくチームを離れてしまった。実際にそれをやるやらないというのは残った仲間が選ぶことですけど、せめて自分が『こうやろうと思ってる』というのを残してたらどうなっただろう、と。キャプテンなのにチームには何も言わず、何も残さず自分のことだけを考えてたことにすごく後悔したし、責任を果たせたかというとそうじゃなかったな、っていまでも思います」

主将としてチームを思い、チームに支えられた

銀メダルを獲得した韓国でのアジア大会を終え、大学に戻った柳田は主将としてチームを引っ張り、入れ替え戦に向けて頭を切り替えようとした。チームのために自分がやらないといけない。頭ではそう思っても、大きな戦いを終えたばかりの柳田には余裕がなかった。そんな柳田を救ってくれたのはほかでもない。慶應の仲間たちだった。

主将としてチームのためになれているか、悩むこともあったという(撮影・佐伯航平)

「代表でチームを離れるときも『厳しいだろうけど、頑張れよ』と送り出してくれて、帰ってからも『大変だったな、お疲れ』と、変わらず温かく受け入れてくれました。特別な言葉はないですけど、自分の中ではものすごく“ホーム”に帰ってきた感覚がありました」

慶應は大東文化大に3-2で勝ち、1部残留を果たした。

大学最後の大会は大阪での全日本インカレだった。柳田が「中学のころは『すごい選手だ』と見上げてました」という山田脩造(現・豊田合成トレフェルサ)が率いる日体大と3回戦で対戦。柳田、山田のエース対決が繰り広げられたが、最後は柳田のスパイクが日体大のブロックに止められ、セットカウント1-3で敗れた。

目指した結果には及ばなかったが、やりきった。いまはそう言える。

タイトルには縁遠い4年間だったが、「慶應にいってよかった」と柳田は言う(撮影・佐伯航平)

「キャプテンってどういうもので、何をするべきなのか。この目標を達成するために、どうプロセスを立てればいいのか。そういう価値観がつくられたのが大学時代でした。いろんな人がいて、中にはすごく偏った意見を持つ人がいたり、ものすごく平らな意見を言う人がいたり。いろんな意見を聞いて、自分で考えて自分で動かないといけない。その意味で本当の自我を確立できました。自分はこういう人間になりたいんだ、いや、ならなきゃ、なろうとしよう、と実践できたのが大学時代でした。僕は慶應にいったおかげでそうなれたし、慶應にいってよかったと思ってます」

初めて選手人生の計画を立て、Vリーグから世界へ プロバレーボーラー柳田将洋4完

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