将来を考えて進んだ慶應、仲間から受けた刺激 柳田将洋2
輝かしい舞台で躍動するプロアスリートの中には、大学での4years.で花開いた人たちがいます。そんな経験を持つ現役プロや、元プロの方々が大学時代を中心に振り返る連載「プロが語る4years.」。第5弾は男子バレーボール日本代表の主将で、ドイツ1部リーグのユナイテッド・バレーズでプレーする柳田将洋(27)。4回の連載の2回目は、慶應義塾大で知った新たなバレーと世界についてです。
絶対的な自信でつかんだ春高V
2009年の「春の高校バレー」で1年生エースの柳田が躍動した東洋高校(東京)は、ダークホースとして注目を集め、ベスト8まで勝ち進んだ。それから1年、柳田は主将として春高に戻ってきた。もはや東洋高は優勝候補の筆頭だった。1年生から出場していたメンバーに加え、いま日本代表でともにプレーするセッターの関田誠大(現・堺ブレイザーズ)が1学年下にいた。個々の能力が高いうえに、日々の練習からそれぞれのモチベーションも高かった。
「勝てる、絶対勝てると思ってたし、このチームなら絶対上にいけると思ってました」
それは柳田だけでなく周囲も同じ。前回大会の活躍で柳田の名は全国に知れ渡り、雑誌やテレビで取り上げられるなど、取り巻く環境も一変した。
「1年生のときは『当たって砕けろ』でしたが、2年生になると『しっかり戦って勝たないといけない』という感覚の方が強かったです。それをプレッシャーに思うことはなかったです。でも試合が終わってスタンドを見たら『これだけたくさんの人が見てる中で試合してたんだ』と思って。そのとき初めて『怖いな』って感じましたね」
スパイクが決まるたび、アイドルのライブさながらに黄色い声援が飛び交う。鎮西高(熊本)との決勝はまるで日本代表戦のような盛り上がりを見せ、東洋高は最後の3月開催となった春高で初優勝を飾った。
春高は翌年から1月開催になった。柳田にとって高校最後の公式戦。東洋高は準決勝で鎮西高に敗れて3位に終わったが、柳田は抜群の存在感を発揮し続け、その実力が本物であることを証明した。
「いい会社に入りたい」と慶應へ
名実ともに世代の先頭に立つ柳田がどんな進路を選択するのか、に注目が集まった。
男子は直接Vリーグに進むよりも、関東や関西の大学1部リーグ所属校に進み、4年間の中で体づくりやバレーのスキルアップに励むケースが大半だ。だがここでもまた、柳田の選んだ道は「一般的」でも「普通」でもなかった。大方の予想とは裏腹に柳田が進んだのは、当時1部に所属してはいたが、優勝争いからは遠ざかっていた慶應義塾大だった。指揮を執(と)るのが東洋高の先輩である宗雲健司監督というのもひとつの理由だったが、柳田の決め手はもっと別のところにあった。
「バレーから離れたいというか、頭のどこかで『将来バレーでは食べていけないでしょ?』と思ってたんです。夢よりももっと現実を見る時期だったから、ない頭なりに大学もしっかり考えなきゃ、と思ってて。そのタイミングで最後に声をかけて下さったのが慶應でした。慶應といえば、社会的にも先へつながる大学だと思ったので、バレー選手としてのキャリアアップというよりも『いい会社に入りたい』と。もちろんバレーもうまくなりたいと思ってたのでいろんな感情が混在してたんですけど『バレーはいつかやめる』と、その時点では思ってたから、後のことを考えたら社会人として道をつくらないといけない。むしろプロになったいまとは真逆の発想ですね(笑)」
バレーよりも将来を見すえて選んだ進路。だがその選択が、柳田に新たな幅をもたらした。慶應のバレー部は高校時代もバレー部だった選手がほとんどとはいえ、強豪と呼ばれる高校で朝から晩までバレーに明け暮れてきたという選手ばかりではなく、慶應の内部進学生もいれば、進学校から指定校推薦で入学してきた選手もいた。「いままでの当たり前とは異なる環境で飛び交う会話の一つひとつがおもしろかった」と柳田は振り返る。
「みんな頭がいいから、普通に話す会話の中に知らない単語がいっぱいあるんです。僕は分からないから『それ何、どういう意味? 』って聞くと、嫌がるでもバカにするでもなく、ちゃんと教えてくれて、『へぇ、そういう意味なんだ』と新たに知るんです。その繰り返しです。さっき言った『混在』という言葉も、きっと大学時代に誰かが言ってて覚えたこと。多種多様の集団で、いろんなことを吸収する。大学時代はとにかく楽しかったです」
大学時代は可能性に満ちている
日常だけでなくバレーの練習中も同じ。たとえば練習メニューひとつ考えるにしても、「いままでのバレー人生での経験から提案した」という柳田に対し、周りの選手は理詰めだったり、その練習をする理由や裏付けを最初に明らかにしたり。アプローチの仕方が違った。
「例えば『レシーブ練習をしよう』といっても、まず形から追求するんです。単純にボールを打って上げるというのではなく、『レシーブの理想の形はどれか』という議論があって、その理想を共有して『ゴールはスパイクボールを上げることだから、形をつくったらディグ(スパイクレシーブ)の練習をしよう』って。その過程でまたいろんな意見が出るんですけど、それもすべて『こうしたらいいんじゃないか?』というポジティブな提案で、頭ごなしに否定はしない。その一致団結感がすごく好きだったし、おもしろかったです」
決して大げさではなく、慶應に入って密度の濃い時間を過ごしたから、いまの自分がある。柳田はそう語る。いろんなものを得られた4年間は間違いなく財産だが、少々悔いもある。
「スポーツビジネスだったり、いま思えば大事な授業を選択してたのに、当時は単位を取ることがゴールだったから、全然内容を覚えてないんですよ。当時の自分にいまの感覚があったら『スポーツビジネスも英語もやらなきゃ、いや、英語だけでいいのか?』と思うだろうし、もしかしたら外に目が向いてもっといろんなことにチャレンジした結果、卒業できなかったかもしれない。大学ってそういう場所だよな、と思うんです。大学で何を得て次に進むかを考えたら、バレーで成長する場でもいいけど、もっと得られるものがあり、いろんなものを学べる場でもある。自分で選択できて独り立ちする直前の半分大人、みたいなところが大学生。可能性はものすごくありますよね。でも当時の自分に言っても、『あ、そう』みたいな感じで、右から左に受け流すだけで、きっと響かないのが残念ですけど(笑)」
春高のスターだった柳田だが、高校を卒業するころはバレーに対する思いが少し冷めていたという。そんな彼にとって慶應バレー部での日々は、もう1度バレーへの気持ちを大きくさせてくれるものだった。高校時代に全国制覇をして新たな一歩を踏み出したように、慶應の柳田にもまた、新たな扉が開かれようとしていた。