サッカー

法政大学・松村晃助 早くも古巣マリノスで出場、年代別代表の常連は大学でさらに成長

古巣でもあるマリノスに内定している法政大学の中心・松村晃助(©︎法政大学体育会サッカー部)

法政大学・松村晃助(3年、上矢部)の経歴を見ると、華々しい実績を残している。小学校3年生から横浜F・マリノスのアカデミーに所属し、15歳で年代別日本代表に名を連ね、20歳でU-20ワールドカップに出場。大学では1年時から関東大学リーグで開幕スタメン出場を果たし、2年目には早々と横浜FMに内定した。既定路線の古巣復帰に見えるが、本人は苦笑しながら首を大きく横に振る。プロ内定までの過程には何があったのか――。

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人生初の「部活動」に戸惑い

大学サッカーの滑り出しは悪くなかった。2023年5月のU-20ワールドカップ・アルゼンチン大会では攻撃的なMFとして2試合に出場し、現・日本代表の高井幸大(川崎フロンターレ)、松木玖生(現・ギョズテペSK=トルコ)らとともに世界の舞台を経験。帰国後も勢いそのまま法政大の主力として活躍するつもりだったが、現実は厳しかった。先発出場と途中出場を繰り返し、攻撃の中心的な役割を担えなかった。1年時のチームは決められた戦術はなく、試合の運び方も選手主体。より考える力が求められたのだ。一貫した戦術のなかで個性を発揮してきたマリノスのアカデミー時代とはまるで勝手が違った。関東大学リーグの1年目は17試合、2得点。チームは1部から2部に降格し、責任も強く感じた。

「1年目から順調ではなかったです。物足りなさと悔しさが残っています」

Jクラブ育ちの松村にとっては、初めての部活動。環境の違いにも戸惑いを覚えた。プロ育成組織のアカデミー時代はプレーだけに集中できる環境を整えられていたが、学生主体で運営される大学サッカー部ではそうもいかない。1年生ならではの雑用も多い。寮では1時間交代で電話当番も務めた。

「正直、最初は相当しんどくて……。でも、そのおかげで、学年の横のつながりは強くなりましたけどね」

いま振り返ると、人間的に成長するきっかけにもなったという。

「自分のことだけではなく、周りにも目が向くようになりました。大学に来ないと経験できなかったこと。組織全体を考えながら行動するようになったと思います」

大学で人間的にも成長したと語る(撮影・杉園昌之)

さらなる苦難、中期目標からの逆算で飛躍

大学2年目を迎えると、ピッチではさらなる試練が待っていた。リーグ開幕からベンチスタート。一方で横浜FMに呼ばれて練習に参加し、5月にはAFCチャンピオンズリーグ決勝の横浜FM―アル・アイン(サウジアラビア)戦を日産スタジアムで観戦。大きな刺激を受け、気持ちばかりがはやっていた。

「このピッチに入ってプレーするためには、もっともっとレベルアップしないといけない。いまのままでは厳しいぞって」

より一層、練習に励んだものの、5節までは途中出場が続いた。総理大臣杯の出場権を懸けた6月のアミノバイタルカップでは、大一番の順位決定戦で初めてのメンバー外も経験。横浜FMのアカデミー時代を振り返っても、ほとんどないことだった。チームは関東予選で敗退し、全国大会への道も閉ざされた。松村は梅雨の蒸し暑い夜、自分の部屋に戻ると、一人で自らと向き合った。

「いろいろな感情を覚えながら、冷静に自己分析しました。同世代の活躍を見て劣等感を抱き、あの頃の僕はすごく焦っていたんです。年齢的には海外に出ても、おかしくないですから。それなのに自分は何をやっているんだって。初めてマンダラチャートをつくり、『試合に出る』という短期目標、『2年生でプロ内定』という中期目標から逆算していきました」

明くる日も考えを巡らせ、頭の中をきっちり整理した。まず外側に向いていたベクトルを内側に向け、トレーニングに打ち込んだ。心がけたのは練習のワンプレーから違いを見せ、泥臭く走り回ること。きっかけ一つで、チーム内の評価は徐々に変化していった。すると、懸命に守備でも働くアタッカーは7月以降、先発メンバーに定着。17試合に出場し、3得点。1年目とさほど変わらない数字ではあるが、その中身は違う。

「僕にとっては大事な時間でした。苦しんだ時期が良かったのかどうかは分かりませんけど、結果的に意識は変わったのかなと。攻守の切り替えが速くなり、よりハードワークできるようになったと思います」

やるべきことを整理され、攻守の切り替えも早くなった(©︎法政大学体育会サッカー部)

古巣のスカウトから評価、マリノスへの気持ち固まる

毎週のように視察に訪れていた富澤清太郎スカウトにも評価され、シーズン終わりには横浜FMからは正式なオファーが届いた。ユースからトップチームに昇格できず、法政大に進んだときには、古巣に戻る未来はあまり想像できなかった。

「当初は何が何でもマリノスに戻りたいという気持ちはなかったです。一度、フラットな目線で考えたいと思っていたので。ただ、スカウトの方とコミュニケーションを取っていくうちに選択肢は、マリノスだけになりました。小学生の頃にみなとみらいのマリノスタウン(現在は練習場が横須賀に移転)でトップチームの選手たちに話しかけてもらったことも思い出しました。それこそ、当時、現役選手だったスカウトの富澤さんにも話してかけてもらったなって。リハビリをしている中村俊輔さんと一緒に歩きながら話したのもよく覚えています。子どもながらにすごくうれしかったんです」

マリノスへの気持ちが固まると、記憶は次から次によみがえった。ジュニアユース(中学年代)時代には日産スタジアムでボールボーイを務めたこともある。2016年6月11日の川崎フロンターレ戦は印象深い。4万6000人以上が詰めかけた“神奈川ダービー”は異様な盛り上がりを見せ、その雰囲気に圧倒されたという。2019年12月7日のFC東京戦も忘れられない。15年ぶりにJ1リーグ優勝を決めた瞬間は、アウェー側に近いスタンドで心を震わせながら、すぐに気を引き締めた。

「とてもうれしかったのですが、ここからプロの世界に入っていくためにはもっと頑張らないといけないなと思ったんです。ちょうど中学3年の年齢で、次はユースに上がるタイミングでしたから。厳しい道のりになるぞ、と自らに言い聞かせていました」

ユースからトップチームに昇格できず、プロへの厳しい道のりは覚悟していた(©︎法政大学体育会サッカー部)

すでにJデビュー、法政では「自分がチームを勝たせる」自覚と意欲

あれから5年。15歳の冬に誓った言葉をしみじみとかみしめる。自信をつかんだ大学3年目は、横浜FMの内定選手として迎えている。すでにJリーグの公式戦に出場可能な特別指定選手に登録され、4月5日の東京ヴェルディ戦では後半44分から出場し、Jリーグデビューを果たした。

もちろん、法政大の中心選手としての役割も全うするつもりだ。2年ぶりの1部復帰を目指し、2部リーグでは「多くのアシストをしながら、5ゴール以上は取りたい」と意気込む。

「『自分がチームを勝たせるんだ』という気持ちで臨みます」

意欲にあふれているが、余裕のある表情に気負いは見えない。全体練習を終えたあと、グラウンドで仲間に囲まれる20歳は、笑顔を見せながらボールを蹴っていた。真価を発揮するのは、ここからかもしれない。

目標は今年中のJデビュー。法政大では2年ぶりの1部復帰に向けてチームを引っ張る松村(撮影・杉園昌之)

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