陸上

連載:私の4years.

けがを繰り返して終わった選手生活 青学大陸上部元主務・髙木聖也 2

大学1年次、10000メートル記録挑戦競技会で走る筆者(右から2人目、写真はすべて本人提供)

人知れず体育会で大学生活をすごした方に当時を振り返っていただく「私の4years.」。元青山学院大学陸上部で、箱根駅伝で初優勝したときの主務だった髙木聖也さん(26)の2回目は、大学入学後のけがとの闘いについてです。

前回はこちら

痛みを我慢しながら練習に参加

「箱根駅伝を走る」。夢をかなえるために始まった大学生活。高校時代のけがを引きずって入学しましたが、「最初に遅れをとりたくない」という思いが強く、何より痛みも我慢できる程度だったので、合同練習に参加していました。

入学して間もない時期の練習後、原晋監督から「走りのバランスが悪い。いったん走るのをやめて、体づくりやバランスを整えるところから始めた方がいいんじゃない?」とアドバイスを受けました。監督も現役時代に当時の私と同じ足首のけがに苦しんだ経験があって、中長期的にはそうする方がいい成績を残せる可能性が高いと助言してくれたのだと、いまならわかります。しかし当時の私は「けが=疲労骨折」と考えていた人間でした。走る練習を中断することに対して抵抗感が強かったのはもちろん、「大学って甘いのかな?」とさえ思っていました。しかし、私の走りのバランスが悪いのは明らかで、先輩方からも同様の意見をいただいたこともあり、最終的には原監督のアドバイスに従うことにしました。

すべてを自分で考える…苦しかった故障期間

苦労したのはそこからです。当時はメイン組が週に2~3回取り組むポイント練習(強度の高い練習)の間は、約1時間決められた補強トレーニングをしていました。でもそれ以外のメニューは、けがから復帰するまで、すべて自分で考えなければなりませんでした。高校時代はけがをしていようがいまいが、与えられたメニューをほとんどこなしてきただけだった私にとっては、簡単なことではありませんでした。

チーム全体がレベルアップしていく時期、練習の質もどんどん上がっていった

専属のフィジカルトレーナーもいない。「体づくり」「バランスを整える」といっても、どんなトレーニングをすればいいのかがわかりません。とにかく書籍やweb、雑誌などを読み漁ったり、初動負荷トレーニングやヨガを練習に取り入れたりと、よくなる可能性があると思ったものには何でも取り組んでみました。しかし、何度もけがを繰り返すばかり。いま思えば「こうしておくべきだった」と思うことは少なからずありますが、当時の自分には知識も余裕もありませんでした。結局、大学1年目に記録した5000mのタイムは15分9秒05と、高校1年生で記録した14分56秒88にすら及びませんでした。「箱根駅伝を走る」という夢は、入学して逆に遠ざかっているな、とすら思いました。

「マネージャー転向を」頭が真っ白に

けがばかりの大学生活1年目を終え、大学2年生になった5月初旬のチームミーティング後、原監督が突然、寮の私の部屋にやってきました。

「マネージャー転向を考えてほしい」

一瞬、頭が真っ白になりました。先輩方には、選手からマネージャーに転向されていた人もいましたし、客観的にみれば自分に打診がある可能性が高いことは分かっていましたが、なるべく考えないようにしてたし、考えたくなかったというのが本音です。現実を突きつけられました。夢をまだあきらめられない気持ち、家族や親戚、中学や高校の恩師に「箱根路を走っている姿を見せたい」という思い、成績を残せていない現実などが入り混じり、いろいろと考えました。

数日後、私の出した結論は「選手としてやりたい」でした。「3年のときの箱根駅伝出場を目指しますので、今年度中にハーフマラソンで1時間5分を切ったら、卒業まで選手としてやらせてください。それと、今後はマネージャー転向の話は一切しないでください」と、原監督にお願いしました。「チームの基準タイムを切れなかった場合は、退部しなければならない可能性もある」ことを条件に、認めてもらいました。当時のチームは箱根駅伝出場を争う位置から、シード常連校になり、入学する選手のレベルもどんどん上がっていた転換期です。それでも自分のわがままを認めてくれた原監督には感謝しています。

大学ベストを出せた、でも…

そして、当時新しく設けられた「第二寮」へ移ることになりました。けがが長引いている選手や、成績を残せていない選手が生活する、実質的な「二軍寮」です。原監督夫妻が同居する「町田寮」からは離れていて、これまで以上に自分で考えて練習することが求められる環境でした。

2年次。走れば走るほど、箱根駅伝から遠ざかっているように感じられてしまった

それまでは高校時代の取り組みや、けがが少なかった昔の自分をベースにして、同じ失敗を繰り返していました。それを改めて、一から取り組もうと決心しました。自分の現状を受け入れて、小さなプライドや遠慮は捨て、走る練習はほとんど一人でやるようになりました。根本的なバランスの悪さや「抜け症」を改善するために、初めてプロのトレーナーに個人のフィジカルプログラムを立ててもらったりもしました。この期間の取り組みは後悔していませんし、大学入学以降のベストを出すなど、一定の成果を残すこともできました。でも、やればやるほど「自分が箱根駅伝を走ることは難しいのかな」という思いがよぎる回数が多くなっていきました。もちろん、それを認めたくないという思いも強かったので、振り払ってはいましたが……。

大学2年の12月末、原監督との約束のレースまで残り2カ月の時期に、箱根駅伝メンバー以外のタイムトライアルがありました。そこで走っているときに、左の中足骨が折れてしまいました。翌日、病院での診察後に松葉杖姿で町田寮へ行きました。

「マネージャーとして頑張りなさい」

原監督から告げられ、「逃げる(辞める)のではなく、チームに恩返しをしなさい」と言われました。「箱根駅伝を走る」という夢をあきらめ、マネージャーとしてチームに残ることを決断しました。もう、迷いはありませんでした。

続き「自分の存在意義に悩む日々」はこちら

この記事をシェア

in Additionあわせて読みたい

Seriesこの連載をもっと読む

この連載の記事一覧へ

私の4years.

Their Stories大学別・競技別に読む