8年前の夏、高校野球が僕に教えてくれたこと
4years.野球応援団長の笠川です! 6月の大学野球選手権では連日コラムを書かせていただき、僕は「書く仕事」に多くのやりがいと生きがいを感じました。これからも野球応援団長らしく、熱い思いをしっかり伝えていきます! 今回は8年前、僕自身の高校最後の夏の思い出について書かせてもらいます。
暑い熱い、夏の始まり
2011年夏。僕は龍谷大平安高校の3年生で、野球部でマネージャーをしていました。
いまでも夏が来ると、部長の森村(俊輔)先生が練習中によく言われていたことを思い出します。「お前らの全力のプレーが、見てる人を熱くさせるし感動させるねん。誰が見ても感動するような必死の熱いプレーを見せなあかん」。この言葉です。
僕たちは「情熱」「団結」というテーマを掲げて練習していました。夏の大会に向けてチームの雰囲気はものすごく高まっていて、自分たちで感じたことはしっかり言い合える関係になってました。僕も「この人ら、頼もしくなったなぁ」と、客観的に見て感じていました。
マネージャーの僕は京都大会に向けてグラウンドに足を運んでくださるOBのみなさんや記者さんらの来客対応、ユニフォームや道具の準備など、数えあげるとキリがないほどの業務を、練習の手伝いと並行しながらやってました。いま思えばそれはそれは多忙の毎日でしたが、すごく楽しかったです。
「君はマネージャー失格」
僕は2年生の秋から春先までの長い間、原田(英彦)監督に怒られ続けました。「君はマネージャー失格。何も周りが見えてない。マネージャーは気を張ってないと務まらない。自分に厳しくない人間にユニフォームを着る資格はない。ジャージを着なさい」と。ユニフォームを着ることさえできない、情けない日々が続いていたのです。
たとえば、遠征で道具の忘れ物があったり、連絡・報告ができてなかったり、監督に頼まれたことを忘れていたり。来客の対応が上手くいかなかったり。仕事が多いとはいえ、「抜け」が目立つダメなマネージャーでした。数え切れないほど失敗をして、怒られて悔しくて泣いて、マネージャーとしての無力さを悲しいくらいに痛感しました。ただ僕がどれだけ怒られても心が折れずに辛抱し続けたのは「強いチームには強いマネージャーがいる。お前が一番チームで強くないとあかん」と、監督に常々言われ続けていたからです。
そして何より、僕は原田監督が好きで、伝統ある平安高校にほれ込んでマネージャーとして入学してきました。「俺は絶対にこの人が認めるマネージャーになってやる!」という根っこの思いの強さが、何よりの原動力でした。
長い間失敗してきた僕ですが、秋から冬を越えて春までの間に自分の弱い部分としっかり向き合いました。そして自分なりの答え、やり方を見つけました。それは「危機管理をしっかりして、あえて不安になる」ことです。不安になったら「あれは大丈夫かな?」「これは大丈夫かな?」と心配事が増えます。心配事が増えたら気になることも増えて、逆にどんどん周りが見える気がしてきたのです。そうすると「抜け」がどんどんなくなって、大ざっぱだった甘い自分を少しずつ捨てられるようになりました。自分でダメな原因を考えてから答えを出して、そこから努力を続けていくことが楽しいと思えました。
自分のできることで、チームの力に
すると、春先以降から徐々に監督にマネージャーとして認められたのか、監督にいろいろ聞かれることが増えました。言葉にこそされませんでしたが「僕に聞くということは、信頼されてきてるのかな」と勝手に思い込んで、ポジティブになってました。そして夏の大会が始まる1カ月前くらいに「お前は声も大きいし元気もあるし、マネージャーとしても成長してきた。明日からユニフォームを着てグラウンドにずっといろ。声を出して気付いたことを伝えてチームを鼓舞してくれ」と、監督に言われました。入部して2年と2カ月で初めて褒められたのです。
自分の長所や個性を生かすのに最適のポジションを任されたあの日のことは、3年間で二番目にうれしい出来事でした。一生忘れません。僕にとって夏前のあの1カ月は、チームのことをより深く見られた大切な時期で、夏の大会に向けた思いもより一層、強くなりました。何とか自分のできることでチームの力になりたい。そう強く思いました。
当時の主将に「ほんまありがとうな。お前もしんどいのにチームを盛り上げてくれて」と声をかけてもらったときは、泣きそうになりました。人に認めてもらえる経験というのは後の人生に大きく響きます。ひとつの成功がその後の人生の自信に変わっていきます。
そして気付けば「絶対に甲子園に行く!」という昔からの自分の夢が「この人たちに甲子園に行ってほしい」という夢に変わってました。自分の夢がどうとかより「こんなにみんな必死に頑張ってるんやから、頼むから甲子園で野球してくれ」と、チームメイト、監督や先生方に甲子園に行ってほしいと思うようになってました。それくらいみんな頑張っていたのです。すさまじい熱量を持って野球をやってました。
3年間で一番うれしかった出来事
そして夏の京都大会が始まりました。苦しい試合もありましたが、勝ち上がる度にチームはまた団結力を増していき、見事に優勝を飾り甲子園出場を決めました。
優勝が決まるアウトを取った直後。両チームが整列するときにベンチ前で泣きじゃくる僕の頭を原田監督はポンポンと2回触って「おい甲子園やぞ。お前もよう頑張った。平安に来てよかったな」と笑いました。これが3年間で一番うれしかったことです。
これは死んでも忘れません。
褒めれば伸びるという簡単なものだったら、僕は野球に長く関わってなかったと思います。昔からそうです。なかなか人に認めてもらえず、怒られてしんどいことのほうが圧倒的に多かったです。それでも野球が大好きでした。ヘタクソだったけど野球が大好きです。だから頑張ろうと思えたんです。
そしてそんな僕にでも活躍できる場所があると思ったから、マネージャーという道を選びました。マネージャーになってからもうまくいかないことが多かったので、うまくいくまでやりたかった。そんな難しい状況だからこそ、目標を達成したり、人に認めてもらえたりするとうれしかったんです。そんな経験は数少ないですが、少ないからこそ、そのすべてが人生の財産になっています。
努力の採点は、自分でしてもいい
つらいことも楽しいことも、若い間から沢山の経験をさせてくれたのも野球のおかげなので、僕は野球に感謝してるし、心から愛しています。
マネージャーは直接、試合でヒットを打ったり、投げて抑えたりして活躍できるわけじゃありません。チームの力に直結するような貢献は、おそらくできません。
でも仮に活躍できなくても、「これだけは頑張った!」「これだけはやりきった!」と胸を張って言えることがひとつでも自分の中にあれば、それだけでも大きな意味があります。結果を受けての評価は他人がしますが、それまでの過程で積み重ねた努力の採点は自分でしてもいいんじゃないかな、と個人的に思います。
例えば僕のように、練習でも試合でもずっと声を出し続けたり、選手の話をたくさん聞いて支えようとしたり、監督や先生の言葉を選手につないだり……。自分という人間に見合った役割はいくらでもあるはずだと考えています。
自分のやるべきことをしっかりやれば、主役になれる
試合に出ても出られなくても、メンバーに入っても入れなくても、最後の夏は絶対に来ます。どうせなら笑って終わるために、チームが勝てるために頑張った方がカッコイイです。
自分の個性、長所という武器を大切にして、チームというパズルのピースになれたら、その後の人生でもそれが絶対に生きます。
プレーが下手でも野球を知っていれば、チームメイトや対戦相手のデータ分析をしたり、教えるのが得意なら後輩にアドバイスをしたり、盛り上げるのが好きなら応援団長をしたり、チームのためにやれることはたくさんあります。
自分のやるべきことをしっかりやれば、野球は全員が主役になれるスポーツです。自分のやるべきことをやれば、の話です。僕はそう思ってます。だから毎日頑張れました。
高校球児の皆さん!
いま、自分ができることを全力でやり遂げてください!
心から応援しています!