陸上・駅伝

連載:いけ!! 理系アスリート

特集:第96回箱根駅伝

インターハイのリベンジとスポーツドクターを求めて 筑波大医学群・川瀬宙夢(上)

今年の箱根駅伝は、川瀬にとって最初で最後の箱根駅伝だった(撮影・安本夏望)

連載「いけ!! 理系アスリート」の第24弾は、筑波大学医学群医学類5年生で、陸上競技部の川瀬宙夢(ひろむ、刈谷)です。筑波大としては26年ぶりの出場となった今年の箱根駅伝で9区を走りました。3回の連載の1回目は、ある種目との思わぬ出会いや、インターハイで味わった悔しさについてです。

大歓声を力に変え、夢の箱根路を駆け抜けた 筑波大理工学群・猿橋拓己(下)

今年の箱根路を駆け抜けた210人のうち、川瀬は唯一の5年生だった。医師と箱根駅伝を目指す異色のランナー。昨年12月の合同取材でも、川瀬には勉強についての質問が相次いだ。その場で川瀬はこう言った。「僕自身、広田有紀さん(秋田大6年、新潟)や真野悠太郎さん(名古屋大5年、滝)や薬師寺亮(筑波大5年、大手前)という医学生ランナーとして頑張ってる選手に魅せられて、ここまでやってこられました。僕が箱根を走ることで何を伝えられるかは分かりませんけど、でもちょっとでもいい影響を与えられたらいいなと思ってます」。今大会は、川瀬にとって最初で最後の箱根だった。

サッカー少年の心に留まったスポーツドクター

愛知県刈谷市で生まれ育った川瀬が最初に興味をもったスポーツは、サッカーだった。地元のクラブチームで1年間、小学校のチームで3年間と、小学校での4年間をサッカー少年として過ごした。0-9で負けることもあったチームだという。「ガチガチのサッカー部じゃなかったこともあるんですけど、自分自身、あまりサッカーの才能はないのかなとは思いましたね」と振り返る。

ただ、サッカー自体は大好きだった。とくに小、中学校のときは陸上よりもサッカーへの思いが強く、正月には箱根駅伝よりもサッカーの天皇杯に前のめりになっていた。そんな風にサッカーの試合を見ていたら、選手のそばにいる人が気になった。スポーツドクターだった。「将来はずっとスポーツに携わりたい」と思っていた川瀬にとって、スポーツドクターは夢をかなえてくれるあこがれの存在となっていった。

小学校の持久走で1位になったこともあり、刈谷市立富士松中学校に入ると、先生から「君、速いらしいじゃん」と声をかけてもらえた。体験入部を経て、陸上部に入った。専門種目がきっちり決まっていたわけではなく、川瀬自身は中長距離を軸としながら、ときには走り高跳びや走り幅跳び、400mでも試合に出た。リレーメンバーに選ばれることもあった。とくに力を入れていたのは1500mだった。中2のときは市の大会で入賞し、中3になると優勝。その先の西三河地区大会では5位になり、愛知県大会に進んだが、予選敗退。そのころは「全中(全日本中学校大会)にいくような人が箱根を走るんだろうな」という思いが、漠然とあったという。

初めて立った全国の舞台で失敗

陸上は中学までにしようと思っていた。しかし勉強の成績に加えて「西三河地区大会5位」「市町村対抗駅伝出場」という競技面の実績が評価され、県立の進学校である刈谷高校への推薦入学が決まった。「ここでやめるのは惜しいのかも」という思いが湧いてきた。加えて陸上部の先輩が優しく、中学のときにはなかった400mトラックのある練習環境も後押しになった。これまで自由に練習してきた川瀬にとって、ペース走やインターバル走などの練習メニューは初めて触れるものだった。

大学5年生のいま、川瀬は3000m障害を専門にしているが、高校のときは1500mの方が“本命”だった(写真は昨年の全日本インカレのもの、撮影・藤井みさ)

高1のときには800mと1500mに取り組んでいたが、高2で迎えた西三河地区大会ではこの2種目に加え、なぜか3000m障害にもエントリーされていた。その事実を大会初日に知らされた。もちろん走ったことなどない。「なんでですか?」。先生に聞いても「そんなことは気にせず、800mと1500mに集中しろ」と返された。1500mでは6位になり、県大会出場を決めた。しかし翌日の800mは予選落ち。「1500mで満足したんだろう。3000m障害でやり返せ!」と、先生から檄(げき)が飛んだ。

中学生のときから3000mに対しては「長い」という意識があった川瀬。「さらに障害も跳ぶなんて無理だ」という思いが強かった。でもやるしかないと腹をくくり、第1組の走りを、とくに水濠に刮目(かつもく)した。「両足で着地したら転ぶんだろうな。片足でいけばいいんだ」と学び、初めての3000m障害は「片足着地、片足着地」と念じて走った。気がついたら前から6番を走っていた。「これは譲れない!」と踏ん張り、初めての種目で6位入賞。1500mに続き、3000m障害でも県大会出場をつかんだ。

その後も本命は1500m、そのための3000m障害という意識で競技を続けたが、高3の県大会は3000m障害で2位に入った。しかもタイムは9分13秒62と、一気に自己ベストを25秒も更新した。その先の東海大会では3位で駆け抜け、初めてインターハイへの切符を手にした。インターハイに進む選手の中で、川瀬はタイム順で15~20番手だった。思い通りのレースができれば決勝に進めると踏んでいた。しかし、予選のレースで別の選手と接触。障害に膝(ひざ)をぶつけてしまった。そこからバランスがとれなくなり、失格になった。当初はこれを最後に引退しようと思っていた。しかし、自分が思い描いたものとはほど遠い結果に「これでは引退できない」と競技続行を決めた。

インカレ決勝に出る、そのために筑波大へ

陸上を続けるのであれば、今度こそ全国の舞台、日本インカレ決勝に立ちたい。そのためにどうしたらいいのかを考えた。このまま東海地区にいたら、地区インカレで優勝して日本インカレには出られるかもしれない。ただ、それではまた予選で負けてしまうんじゃないか。だったらレベルが高い関東で勝負するしかない。そう考えたとき、レース後に声をかけてくれた筑波大学陸上競技部中長距離コーチ、榎本靖士さんの言葉が心に残った。「予選敗退だと推薦は難しいけど、筑波で一緒に陸上をやらないか?」。レベルの高い筑波大で戦えるのかという不安もあったが、川瀬は勝負したい気持ちで押し切った。

インターハイを終え、川瀬は筑波大が箱根駅伝を目指して強化していることを知った(写真は2020年1月現在のもの、撮影・松永早弥香)

それ以前に決めていたことがある。「医学部にいく」。高校ではけがが相次ぎ、狙った大会で走れないことが続いた。「自分がやりたいことをやってるのに、なんでこんなに思うようにいかないんだろう」という思いの一方で、「自分の体の仕組みをもっと知りたい。将来悩めるアスリートの手助けができるといいな」という思いもあった。小学生のときから漠然とあったスポーツドクターへのあこがれは、具体的に目指すものへと変わっていた。

周りに医学部を目指す友人が多かったこともあり、高2から勉強にも本腰を入れるようになった。そして1年の浪人を経て、筑波大学医学群医学類に合格。「宇宙のように大きな夢をつかんでほしい」という思いから名付けられた「宙夢」の名のままに、生まれ育った刈谷を出て、大きな夢につながる一歩を踏み出した。

いけ!! 理系アスリート

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