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連載:監督として生きる

引退後も見据えて東芝へ、社業でチームビルディングを学び 筑波大・吉田健司2

東芝の社員として勤務していたときの学びは、指導者になったいまにも生きている(すべて撮影・佐藤雅美)

昨年12月のインカレ男子で筑波大は3年ぶり5度目の優勝を果たしました。そのチームを率いる吉田健司ヘッドコーチ(HC、61)は2004年に東芝を退社後、母校である筑波大学男子バスケットボール部の技術顧問に、06年にはHCに就任しました。連載「監督として生きる」ではそんな吉田さんの現役時代も含め、4回の連載で紹介します。2回目は筑波大を卒業後、東芝で選手、そして社員として勤務してきた日々についてです。

高3で国体メンバーに選ばれ筑波大へ、最後のインカレで涙 筑波大・吉田健司1
破天荒な名将 東海大バスケ・陸川章HC(上)

仕事の後に練習、その後に残業の日々

筑波大4年生のときには関東大学選手権で敢闘賞、リーグ戦でリバウンド王を獲得。センターとして素晴らしい活躍を挙げていた吉田さんは、卒業後の進路に東芝バスケットボール部(現・川崎ブレイブサンダース)を選んだ。新日本製鐵、日本鋼管という強豪からの誘いを断り、実業団リーグ2部に所属する東芝を選んだ理由は、引退後の人生を見据えてのことだった。

「当時、電気や通信はこれから伸びていく産業の代表格でした。選手を引退した後は勢いのある業界で力を発揮し、ゆくゆくは海外で仕事をするのも面白いなと。バスケ的には、1部に昇格するために強化を始めていたタイミング。名門チームよりも、こういった新しいチームの方が自分の力を出せそうだと考えました」

吉田さんが入社した年のシーズンに、チームは実業団リーグの1部に昇格。吉田さんも、8時から17時まで仕事、18時から練習、その後はオフィスに戻って残業というハードスケジュールの中でバスケに打ち込みながら、新人王を獲得するなど順風満帆のスタートを切った。しかし27歳のとき、吉田さんは早々に引退を迎えることになる。

5年目となるシーズン前、吉田さんは左ひざに違和感を覚えた。半月板損傷だった。当時は非常にやっかいだったこのけがを、手術と1カ月の入院を経て克服し、戦列に復帰。けがの前のようなプレーはできず、ベンチを温める日々が続いたが、それでも吉田さんの気持ちは「来季こそは」と上向きだった。ただ、上層部は冷徹だった。その年のシーズンが終わると吉田さんは監督に呼び出され、進退を問われた。

「監督さんは、直接的な言葉は言いませんでした。『今、君はけがで苦しい状況だね』『今度、君と同じポジションにこういう選手が入るんだ』『君にはこれから仕事でがんばってもらいたい』……。このような言葉を聞いて『ああ、そういうことか』と。『分かりました、引退します』。そう言うしかありませんでした」

現役を退き、海外も見据えて社業に専念

突然訪れた現役引退。その絶望を断ち切るように、吉田さんは社業にまい進した。かつてのチームメートと酒を酌み交わすこともなければ、練習も試合も一切見に行かなかった。生活のすべてからバスケを断ち切らなければ、たちまち未練に足を引きずられそうだったからだ。

引退後から2年間は、練習場に隣接する工場で生産管理を担当。29歳のときに本社へ異動し、営業マンに転じた。地方でもっと営業力を極め、ゆくゆくは海外へ。そんなキャリアプランを描きながら、未経験の業種でも力を発揮した。

現役を退いてからは、海外勤務を見据えたキャリアプランを描いていた

会社員時代の経験は、現在、チームを取り仕切る上でも大いに生きているという。

「一番役立っているのは組織論です。リーダーがいて、その下に役割分担があって、それぞれが責任をもって活動するっていうのは、バスケでも仕事でもまったく同じなんですよ。具体的に言うと、リーダーがしっかり方向性を指し示しつつ、そこにぶら下がる人の役割を明確にする。部下たちが自由にやりやすい環境を作りつつも、押さえるべきポイントはしっかり押さえさせることが大切です。あとは、リスクマネジメントですよね。各部署のリーダーたちには様々なアクシデントを想定させ、それを発生させないことと発生したときの対処法を考えさせるようにしています」

筑波大男子バスケ部は、プレーヤーはもちろんのこと、スタッフも優秀だ。学生コーチたちは試合映像を見て、自チームの反省点と対戦相手の特徴を分析。各項目に編集した映像を選手たちに見せて、ポイントをより明確に意識させる。最近では広報担当がチームのSNSを充実させ、大学バスケ部としてはおそらく初の公式YouTubeチャンネルを開設させた。

「私は『これやれ、あれやれ』と言わず、気になったら少し声をかける程度です」と吉田さん。学生たちの主体的な取り組みは、彼らが一つの塊(かたまり)となって目的に進むための、吉田流の組織論なのだ。

監督からの一声、キャリアより青春を捧げたバスケへ

営業に異動し、5年が経った34歳のとき、吉田さんは当時のバスケ部の監督から「アシスタントコーチとして部に戻らないか?」と声をかけられた。青天の霹靂(へきれき)だった。「なぜ私に声がかかったのかは今でもよく分からないんですが、大学でコーチングを学んでいたことや、34歳という年齢がアシスタントコーチとして適齢と判断されたのかなと思います」。吉田さんはそう振り返る。

社業でも順調だっただけに、吉田さんは悩んだ。ここで社業を離れれば、思い描いたキャリアプランはほぼ白紙となる。しかし最終的に選んだのは、かつて青春を捧(ささ)げたバスケだった。

実に7年ぶりとなったバスケ現場で、吉田さんは自身が経験したことをベースに選手たちを導こうと考えた。しかし、その目論見(もくろみ)は外れることになる。「とんでもないところにきてしまった……」。吉田さんのコーチ人生は、大いなる衝撃から始まった。

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