ラグビー

連載: プロが語る4years.

「戻れるなら、あの試合に」早稲田大学4年間で、学生相手に唯一の黒星 佐々木隆道2

佐々木さんが入学した2002年度、早稲田大は13年ぶりに大学日本一になった(撮影・すべて朝日新聞)

ラグビー元日本代表FWの佐々木隆道さん(36)が現役を引退しました。3度の大学日本一を経験した早稲田大学を卒業後、国内ではまだ珍しかったプロ選手にこだわりトップリーグで活躍。7月からキヤノンイーグルスのコーチとして新たな道を歩み始めた佐々木さんが、学生時代を中心に選手生活を振り返ります。5回連載の2回目は、大学入学から忘れられない敗戦まで。

当たってほめられラグビーへ ノビノビつかんだ高校日本一 佐々木隆道1

初の寮生活に「カルチャーショック」

佐々木さんは2002年正月に啓光学園(大阪)で高校日本一になった後、U19(19歳以下)日本代表に一つ上の世代とともに選ばれた。3月、イタリアでのジュニア世界選手権に挑み、全4試合にNo.8で先発。このため、早稲田大への合流は他の新人より少し遅れた。

初めての関東で、初めての寮生活が始まる。「カルチャーショックでした」。当時、ラグビー部寮は東伏見(西東京市)にあった。小さな二人部屋、ドアを開けると、みたこともない輸入物のプロテインの大きな缶が目にとまり、壁には「モーニング娘。」のポスター。巨漢プロップの先輩は「好きなとこ、使っていいよ」と優しかったが、二つある机は先輩の私物で埋まっていた。築35年、グラウンドの砂ぼこりが部屋まで入り込み、二段ベッドの布団はザラザラした。「寮生活になれるのに必死で。先に寝ていいのかなどで迷い、すごく緊張した」。食事当番もあり、料理の基本はそこで覚えた。

1年生の時の公式戦は、大学選手権決勝まで全試合No.8で先発した

一流の指導に刺激

ラグビーの方は順調だった。春からレギュラー組で練習を重ねた。6月には、のちにニュージーランド代表監督としてワールドカップを制覇するグラハム・ヘンリーさん、ウェールズの名プロップだったデビット・ヤングさんが臨時コーチで教えに来た。当時の清宮克幸監督は「若い時に本物に触れることはすごく大事」とよく言っていた。超一流を知った佐々木さんには、大学卒業後プロとしてラグビーを極めたい、との思いを強くするきっかけとなった。

中学、高校と自由にラグビーを楽しんできた佐々木さんは、早稲田大では異質の存在だった。同じく新人からレギュラー組だった青木佑輔さん(国学院久我山高~サントリーサンゴリアス)から、おおらかな振る舞いをよく心配された。寮の電話の呼び出し音は、極力、鳴らしてはいけない、など部には不思議なルールもあった。佐々木さんは「笑い話になるようなエピソードは、どこの大学の部にも少なからずあるでしょう。でも、あんなに勝利への思いを持つチームはなかなかない。先輩方は本気でそれを目指して行動していた」と言う。

例年、ライバルの慶應義塾大学と明治大学を相手に1年生同士の試合が組まれる。先輩たちから「慶應だけには負けるな」、「明治だけには負けられない」とゲキを飛ばされるが、その意味はわからなかった。「4年間、過ごしていくと、早稲田スピリットみたいなものを最後に理解できた。伝統的に受け継がれている部の文化。一般社会にそのまま当てはめることはできないが、自分を作る上では大事だった」

佐々木さんは高校、大学と2年続けて日本一を味わった

13年ぶりの大学日本一

秋から上井草(杉並区)の新しい寮とグラウンドに移り、見違えるような環境になった。開幕戦から1年生レギュラーとして奮闘。チームは早慶戦に計12トライを奪って74-5で圧勝し、早明戦は24-0と76年ぶりの零封勝ちで勢いを増していった。年が明けて全国大学選手権の決勝では、関東学院大学を27-22で下し、13年ぶりの大学日本一をつかんだ。結局、初戦から12試合すべてにNo.8で先発起用され、期待にこたえた。

自分のせいで、申し訳ない

「戻れるなら、あの試合をやり直したい」。佐々木さんがそう振り返るのは、大学に在籍した4年間で、学生チーム相手に唯一、黒星を喫した公式戦、2年生の時の第40回全国大学選手権(2003年度)決勝だ。関東学院大に7-33で敗れた。「プロになってからなど他の試合で負けたことは、自分で認めて受け止められている。でも、あの試合だけは、自分のせいで先輩たちが勝てなかったのではと思えて、今でも申し訳ない気持ちがある」

この時の最上級生は、新入生で同部屋だったプロップの先輩ら特にお世話になった代だった。シーズンが佳境に入った03年11月、イラクで復興支援中だったOBの外交官、奥克彦さんが殺害された。直接、面識はなかったが、事件翌日、清宮監督は部員を集め、奥さんの功績などを語った。「相当の使命を持って行動されていた。ラグビーを通じてつながっている気がした」と佐々木さん。早明戦では黙禱(もくとう)がささげられ、国立競技場に半旗がひるがえった。勝ち切りたいシーズンだったが、最強とも呼ばれた関東学院大に前半は0-0としのぎながら、最後は力尽きた。

2年生の時は関東学院大に敗れた。タックルしているのが佐々木さん

突然だったキャプテン指名

佐々木さんの大学時代、日本一を決める大学選手権決勝の相手はすべて関東学院大だった。前後合わせて6年連続、両校が決勝で顔を合わせた2強時代だった。3年生になった04年度シーズンの早稲田大は関東大学対抗戦で4連覇を飾り、選手権では関東学院大に雪辱、2年ぶりの王座に返り咲いた。

早稲田の大隈講堂前で開かれた優勝報告会。一般の学生も見守る中、清宮監督がいきなり、切り出した。「来年のキャプテンは佐々木です。いいよな、みんな」。拍手が起こった。何も知らなかった本人は「えっ、そんな決まり方あんの」と驚いたが異論はなかった。突然の発表だったが、当然の選出だった。しかし、誰もが認める生粋のリーダーには、最終学年で思わぬ苦労が待っていた。

早稲田大4年の夏、生粋のリーダーが流した涙の意味 佐々木隆道3

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