バレー

連載:あなたにエール

中大・土岐大陽へ、最後のインカレに挑めなくても 「応援団第1号」の母からのエール

土岐はラストイヤーの今年でバレーに一区切りをつける(写真は全て本人提供)

アスリートの成長を身近に感じてきた方が独自の目線でたどる連載「あなたにエール」、今回は中央大学男子バレーボール部主将の土岐大陽(どき・ひかり、4年、駿台学園)へ、母・美保さんからのエールです。中大は11月30日開幕の全日本インカレに出場する予定でしたが、新型コロナウイルスの影響から出場見送りとなりました。

「強くなる」と決心し、強豪の駿台学園中学校へ

バレーボールを始めた小学校4年生のころから、私は息子の応援団第1号。ずっと、そのつもりでした。

なかなか勝てなかった2人の姉たちの試合を見て、「俺はもっと強いチームでやりたい」と言って、小学生ながら電車に乗って千葉から埼玉までバレーボールの練習に通っていました。私は病院勤務で、息子が産まれて7カ月のころから働いてきたので、二人三脚というには程遠かったけれど、どれだけ厳しい練習をしても「強くなる」と頑張る息子を陰ながらいつも応援してきました。

土岐は小学生の時に自ら望み、千葉から埼玉へ通ってバレーに打ち込んだ

「地元ではなく東京の駿台学園中学校へ行きたい」と言って駿台学園に進んだ時も、周りは小学生のころから全国大会に出場してきたエリート選手ばかり。その中で大陽がやっていけるのか、正直に言うと最初は不安でした。

でも、チームメートは優しい仲間ばかりで、試合前になるとみんなで「気合を入れよう!」とバリカンで丸刈りにしたり、厳しい練習も楽しそうに乗り越えて、全国優勝を成し遂げる息子の姿はとてもたくましかった。一番甘えたかったはずの子どものころ、小学生、中学生になってからも私は仕事が忙しく、何ひとつしてあげられなかったけれど、素晴らしい仲間に恵まれて本当に幸せでした。

駿台学園中学校で全国制覇を成し遂げ、美保さんに優勝メダルをプレゼント

突然の丸刈りにバリケード、その先でつかんだ春高優勝

大変なことがあっても、大陽は滅多に弱音を吐いたり愚痴ったりすることはありません。ただ一度だけ、「きつい」と漏らしたのが高校生のころ。中学校からそのまま駿台学園高校(東京)に進み、それまでとはまた違う厳しい練習を重ねる中、うまくいかないことが自分でも苦しかったんだと思います。

それでも1年生から初めて春高に出場するチャンスをいただいたのですが、試合が始まって10分も経たない内に足を痛め、途中退場。そのまま病院へ連れて行くと、疲労骨折と診断されました。夫が単身赴任で家に車もなかったので、家から駅まで10分弱、緩い上り坂を自転車で後ろに大陽を乗せ、駅まで送る。何もしてあげられなかった分、これくらいは、と張り切っていたんです。でも小さいと思っていた大陽がずっと大きく、重くなっていて、力を入れ過ぎてハンドルが壊れたり、よろけて2人で一緒に転んでしまったこともありました。

きっとあのころ、選手として大陽は不安だったかもしれませんが、私は少しでも大陽の役に立てることがうれしかった。そして、なかなか脚が治らず、松葉杖でプレーもできない大陽を「必要な選手だから連れて行きたい」と必ず遠征に連れて行ってくれた駿台学園高の梅川大介先生。そんな梅川先生の思いが、私だけでなく大陽もうれしかったはずです。

土岐(奥の7番)は駿台学園高時代、思い通りにいかない経験もたくさんあった

中学で全国優勝したこともあり、2年生のころから全国大会に出れば優勝候補と言われていました。でも、創造学園(現・松本国際)へ試合に行った時、浮かない顔で帰ってきた息子に「結果はどうだったの?」と聞いたら、「2位だった」と。不機嫌な理由を察していたら、お風呂から出てきた息子を見てびっくり。丸刈り頭になっていたんです。自分が情けなくて、不甲斐なかったんでしょうね。お風呂でバリカンを使って丸刈りにした、と照れ笑いしながら、自分で刈った頭をなでながら反省していたこともありました。

強いチームで強くなりたい。そう言い続けてきたせいか、負けることが本当に大嫌い。3年生のインターハイ東京予選で東亜学園に負けた時もそうです。家に帰ってきても何も言わず、私の顔も見ずに部屋へ直行。頭にきて「ご飯ぐらい食べなさい!」と追いかけて、部屋のドアを開けようとしたら、ドアの前に棚を置いてバリケードをつくっていたこともありましたね。

周りの仲間には随分厳しく当たってきたそうですが、その成果が実り、最後の春高で優勝できたこと。頑張ってきたことが報われて、本当によかった。素直にそう思います。

中大で初めての寮生活、LINEの返信は短い単語ばかり

愚痴や不満を言わない分、何かを決める時も私には相談しません。報告するのは、全部決めてから。中大へ進学すると決めた時もそうでした。

中大進学を機に土岐(前列右端)は初めて家を出て、強い仲間たちと鍛え合ってきた

中学や高校以上にすごい人たちばかりが集まる場所で、なかなか試合に出られず、悔しく、歯がゆい思いもしていたと思います。でも寮生活なので顔を見ることもできませんし、LINEをしても送るのは私ばかりで、たまに返信があっても「あー」とか「おー」とか短い単語ばかり。いつも「大丈夫」としか言いませんでしたが、苦しかったこともたくさんあったはずです。

4年生になって、キャプテンになって、ゼロからチームをつくり直すとラントレを増やして、一つひとつ大事にチームをつくる姿を、今まで以上に頼もしく、そして楽しみに見ていました。卒業後はバレーボール選手としては区切りをつけ、ひとりの社会人として頑張る。そう決めたからこそ余計に、頑張る息子を私も応援していました。ずっと目標としてきた春、秋リーグでリベロ賞をとるくらいの活躍をすること。キャプテンとしてチームを勝たせること。最後の1年はどんな姿を見せてくれるのか、私も本当に、本当に楽しみでした。

かけがえのない時間をありがとう

でも、春季リーグが中止になり、東日本インカレもなくなり、秋季リーグもできなかった。最後の最後、全てをかけるはずだった全日本インカレにも、中大は出場することがかなわなくなってしまいました。

何度も何度も練習停止になる中、それでもめげずに頑張ってきた中大のみんなを、例えその場で見ることはできなくても応援したかった。これで最後、と決めた大陽が楽しそうにコートを駆け回る姿が見たかった。

ごめんね。何よりつらいのは息子で、「覚悟はしていたから」とか「大丈夫」と踏ん張っているのに、私はかけてあげる言葉も見つかりません。できることならもう1年やり直したい。そんな願いをかなえてあげられたらいいのに、と思うことしかできません。

大陽の高校時代は私も仕事が忙しく、大陽より帰宅が遅いことも多くて、練習で疲れて帰ってきても家で迎えてあげられない日も数えきれないほどありました。姉2人も含め、子どもだからといって特別扱いはしないのがわが家のルール。一番最初に帰宅した人が犬の散歩に行くと決めていたので、大陽が散歩に連れて行くことも多かったですし、練習着を自分で洗濯させたことも、たくさん、たくさんありました。

土岐は小さいころから、病院勤務の母を思う優しい子だった

私が大陽にしてあげられたことはほとんど浮かばないけれど、大陽からもらったものは数えきれないほどたくさんあります。小学生のころから試合の度にバレー応援という楽しい、かけがえのない時間をつくってもらった。息子だけでなく、母の私も素晴らしい仲間に出会うことができて、みんなで応援するのが本当に楽しかった。ありがとう。

つらいことも山ほどあったけれど、今まで本当によく頑張ったね。素晴らしい仲間、先生方、支えてくれたたくさんの人たちに出会えたこと。大陽にとって、宝物です。そして、人懐っこいあなたのおかげで、母もたくさんの宝物をもらいました。本当にありがとう。

これからの人生も、これまで以上に大変なことがまだまだたくさんあるかもしれないけれど、ずっとずっと、応援しています。これからも、応援団第1号でいさせてね。

あなたにエール

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